ためらいがちに差し出された手は、すっかり泥で汚れてしまっている。
差し出したものの、イアルパはそれ以上何かを言うつもりはなく、また、言うべき言葉というものを、知らない。
ナッジが躊躇せずその手を握ると、一瞬、息を呑んだのがわかった。それが何やらおかしく、くすぐったいような気がして、ナッジは笑いを漏らす。
「大丈夫だよ。僕は、絶対に、君の事裏切ったり、しないから」
もう一方の掌も重ね、直接灰色の瞳に語りかけると、今度はイアルパの目が驚愕に見開かれた。灰色の瞳は動かずに、じっとナッジを見ている。真偽のほどを確かめるつもりなのか。こちらの意図を汲もうというのだろうか。
イアルパとの意思疎通は、この少年と出会った時から、ナッジが喋り、イアルパがそれに関して何らかの反応をする、という、ひどく一方的なものに終始されている。
それでも、ナッジはイアルパを友達というよりも家族として自分の住処に受け入れる事に、何ら疑問を感じる事はなかった。
イアルパは、ナッジの理解の外にある存在だったが、同時に、今までになく近しい存在のように思えたからだ。
大分長い間、灰色の二つの瞳はコーンスの少年の言葉と行動の意味を考えていたようだったが、その間、掴まれたはぬくもりから逃れようとはしなかった。
父も母も失ってしまい行き場をなくしてしまった、まして、労働力としては些か力不足な子供を引き取るほどのお人好しは、この小さな宿場町にはいなかった。
けれども、野たれ死にさせるには些か寝覚めが悪かったのだろうか、渋々といった態でこの孤児をまず引き取る事になったのは、権力も貯えもそれなりに在る、ノトゥーンに仕える神官だった。
それはイアルパにとって、生憎と平穏な日々と十分な庇護を約束された安息をもたらすものにはならなかった。
心安らぐ事などはありえない日々の、始まりだった。
庇護してくれる存在を失い、心を開く事を覚える前に、失う事を覚えてしまった子供が、一体どうすれば頑固な初老を迎えた神官に従い、ノトゥーンの教えを有難いと信じる事ができるというのだろう。
天に祈るよりはまず一欠けのパンを。
そんなばかげた祈りは、教典のどこにも、載ってはいなかった。
新たなる保護者である老神官には、その年齢よりもだいぶ老けて見える顔にも、骨が目立つ掌も、鋭さと厳しさしか見いだせない。
だから、確かに町の悪ガキには効果的な教育にもなりうるような秩序を重んじる厳格さと規律とは、イアルパにとってはただの苦痛でしかなかった。
かくして、更に厄介物の烙印を押されてしまったイアルパは、ある凍り付いた晩、雨風を防げる屋根と粗末な毛布をかなぐり捨て、古びた教会を飛び出した。
それを知った老神官は、難儀そうに椅子から腰を上げると、形ばかりの探索を町の若者たちと行ったものの、その行方をつきとめる努力はせず、探索は早々に打ち切られた。
悲劇と表現するまでには至らない、決して裕福とはいえぬ町や村には、よくある話だった。
『精霊憑きそこない』
イアルパは、砂漠の民のような地黒の肌と、青みを帯びた灰色の髪の子供だった。
大陸では、ごくごく稀に赤や青といった、精霊の意思の介在を思わせる毛色の子供が生まれる事がある。
おおよその場合、それらは見た目だけの問題で、何ら身体的に優れる、或いは劣るといった特異性も見いだせない。
精霊という言葉は、この世界では、素直に信仰の対象になり得るアキュリュース、ウルカーン、エルズといった国であれば兎も角、ディンガルやロストールといった大国では、その神秘性も有難さも消え失せてしまい、残るは精霊の力を利用する、という利便性だけが残っている場合が多い。最もディンガル帝国に併合されながら自治を認められてきたテラネでは、文化的には帝国の影響を受けるよりは、むしろ神聖王国アレルシアの形骸を幾分か残していた。それは、霊峰トールに間近の宿場町でもあり、田舎町には似合わずノトゥーン神官の発言力が強いことからも伺える。宿の大元締めでもあるアユテラン四世もまた同様だった。
そして、多分に漏れず、テラネという町は非常に保守的な権力者でもってして治められる町だった。
『精霊憑きそこない』とは、過剰な精霊信仰を疎むノトゥーン神官の悪意と、異質な者を厭うアユテラン氏の偏見が生んだ、幻想だった。
しかしながら町の権威の口からそのような言葉が出れば、悪意を伴う、決定的な言葉としてそのものが独立してしまうこともある。
そんな、どう見ても疎まれていた少年の名を、ナッジは知らなかったわけではない。
良くも悪くも、彼は有名だった。
そして少なくとも、この小さな宿場町では歓迎されかねる存在だった。
だからといって、同様に疎まれているコーンス族の自分が親近感を覚えわけではない。
枯れかけた草と落葉の、それも冬枯れの木枯らしの中、ボロの着の身着のままで立ち尽くしている少年が、じっとこちらを見つめていたのだ。
これが普通の人間の子供なら、悲鳴をあげて逃げていたところで、咎められはしないだろう。
その瞳は何もない。希望もなく、かといって絶望もない。
何も見いだせなかったから、ナッジはすっかり透明な光に捕われてしまっていた。
世の中に対する敵意だとか、絶望だとか、そういったものが垣間見えたのであれば或いは、もう少し違った印象を抱いたのかもしれない。
どのくらいの時間がたったのか、それはどちらにもわからなかった。
黙ったままの黒い少年は、薄汚れた外見と感情の一切こもらない瞳をしている。
イアルパの、瞳の奥底の光には何も見いだせないものの、それを曇らせる膜は、他者への不信に満ちていた。
初冬の朝は冷える。ぶる、と身震いをしながら、その寒さとともに、ナッジは本来の自分の仕事を思い出した。
地面に置いた木桶にたっぷりと入った水の事を、思い出した。
けれどナッジの意思は、冷たい朝の水仕事ではなく、目の前の、野良犬みたいなイアルパの瞳に、吸い寄せられていた。かさりと、枯れ草が動く。音に、黒い影がぴくりと動く。
「…逃げないで」
まるで野兎や小狸に語りかけるように、ナッジは静かな声で呼掛けてみる。
イアルパは、瞬間、目に剣呑な光を、宿した。
「ごめん、君が突然現れたから僕、びっくりしちゃったんだ。ねえ、寒くない?」
苦笑してみせてから問いかけるナッジの言葉に、イアルパの表情がわずかに動いた。
そのわずかな変化に、ナッジは歩みを止めた。
イアルパにその気があれば、ナッジは強かに殴りつけられるか、引っ掻き傷の一つや二つ、出来ている。だがイアルパは、その場から動かず、ただじっと様子を伺っているだけだ。
「うちに、おいでよ」
ナッジの言葉が、果たして通じたのかどうかはわからない。
イアルパはナッジの言葉に、明らかな反応は示しはしない。
「そんな格好じゃ、風邪をひいてしまうよ」
珍しく朝の仕事を忘れ、いつまでも戻ってこない孫を心配したジルダが様子を見にやってきたころには、雪曇りの空も大分明るくなってきた頃合だった。