目が点になる、というのはまさにこのことだ。
「あ、リタ。おはようございます」
「…おは、よう…」
こちらは面食らっているというのに、この、お姫様はまったく暢気ね!
ずきずきと痛むこめかみをおさえ、溜息を落としたところで、彼女は事態の深刻さを理解はしてくれない。ああもう、目が覚めてから一体何度目の溜息だろうか、数えてみたら軽く絶望できるかも。そんな下らないコトをつい考えてしまう程、リタは途方にくれていた。
目の前にいる、桃色の柔らかそうな髪の毛、ぽわんとしたどこか抜けてる表情、何が何だかわからないとことりと首を傾げてみせる仕草、翠色のきらきらした瞳。間違いない。エステルだ。
ただし、今目の前にいる「彼女」は、リタよりもずっと年下に見えて、しかも背が低い。
――でも。これは、エステルね。
まず、緊急事態と称しリタを早朝から呼び出した人物が、かのヨーデルである。彼以外ならばリタも多少は疑うのだが、彼なのだ。その時点で疑っても仕方ない。
「とりあえず、朝から随分傑作なことになってるみたいね…」
「そうです?…私にはよくわからないんですけど、そうなんですか?」
この、全然要領を得ない返しこそ、彼女がエステルである証拠に他ならない。数多の経験より、リタは確信した。
「そうなんですか、って、知らないわよ。フツーに考えたらイエスだけど。そうね、なんなら誰か呼ぶ?」
リタのちょっとキツめの言葉に、エステルはぷるぷると慌てて首を横に振る。
「あ、それは、やめといた方いいですね?多分」ホントはフレンに相談したかったんですけど。ぽつりと漏れるエステルの言葉を、ついつい耳聡く拾ってしまうリタの眉が、ピクリと動いた。
――確かにあいつならエステルに近い立場だし、色々出来るだろうし、対応だって間違いはないだろうけど。悔しいけど。出来ればどさくさにまぎれて事故かなんかで暫く再起不能になってほしいけど。そもそもあたしのトコに話がきたのだって、あいつが何故か不在だからってのもあるのはわかるんだけど、だって、そりゃあ、基本城に缶詰の騎士サマは頼れるに決まってるわ。個人的には気に食わないけど!
リタが、ぷりぷりと少々過激な表現でもって、しかもずれた方向に、脳内で怒鳴り散らしている間、エステルはといえば、ほわほわと暢気な笑みを浮かべて寝台の上にちょこんと座ったまま、ふわあ、とあくびをした。のんびりと。まるで、彼女の周囲だけ時間の流れがゆったりとしているかのように。
それから改めてリタを見て、大きな瞳をしばたたかせる。
「あの、それで、リタ。私、どうすればいいでしょう?」
言うに事欠いて、コレである。
どうもこうも。話が全然前に進まない。
「とりあえずは暫く休んでたら?あたしはその間に、色々、原因とかね、調べてみる。正直…どこから取り掛かるべきかわからないし、自信ないけど…」
実際、そう言うしかなかった。
エステル不在でもなんとかなるよう、手回しはします、とリタに告げたのも、ヨーデルなのだ。とはいえ解決の糸口が全く見えないのも事実であれば、リタの口調もどこか切れの悪いものになる。
だが、リタの、珍しく弱気な言葉もなんのその。ぽわんとしてたエステルの顔がぱぁっと一瞬にして輝いた。こういう反応だけはやたらと早いのも、彼女がエステルたる証拠だ。
「なら、大丈夫ですね!」
「え、ええ。そうね、多分…なにも、しないよりは」
「それなら、リタと暫く一緒にいてもいいってことですよね?」
「え?は?」エステルお得意の謎理論展開に対し、そうなの?と思わず素っ頓狂な声が出てしまう。そしてエステルはといえば満面の笑みで頷いた。
「だって、原因を調べるっていうなら私の側にいないと、ダメですよね?えっと、あと、それは私がイヤだっていたら無理ですし、私はリタと一緒にいたいですし、リタと一緒なら安心だし、楽しいです」
あー、それ、なんか、違う。
違うんだけど。あと、なんか、強引なんだけど。
ぐっと片手で握り拳を作ってみせる、ちいさな(外見年齢十歳未満)エステルを前にすれば、リタ・モルディオはまったく、無力な存在である。
エステルが協力して(?)くれるのはよいのだが、結局何が原因なのかがわからなければ、対処しようがない。
これが、ちょっと前までならば、エステルの話を聞いた後エアル云々といったリタお得意の方向から攻めようもあった。テルカ・リュミレースにおけるトンデモ現象はだいたいエアルやら魔導器やらが原因だったのだから。が、如何せん世界は平和になりエアル依存の生活には終わりを告げてしまっている。そもそもその終わりを告げさせた張本人たるユーリ・ローウェルとリタは知り合いどころか仲間、共犯者といってもよい仲であるので、どうしようもない。
そんな中、色々な理由で、リタ・モルディオという少女は普段から多忙な生活を送っているのだが、それはそれ、大切な友人でありリタの中では最優先事項であるエステルの危機(?)たれば、地の果てからでも駆けつけるのだ。
それが、このように「とりあえず、どうしていいかわからないけど、どうにかしなきゃならない」無茶振りを、帝国最高権威者(ヨーデル)からさらりとされるような理不尽極まりない事態であっても、だ。
ともかくも、まずは当人に話を聞くしかない。ふう、と息をひとつ落として、リタは頭の中を仕切りなおした。
「今朝起きたらそうなってた。身に覚えもない。おかしなものを食べたとか飲んだ記憶もない。何時も通りの生活をしてた、のね」
「はい。そもそもおかしなものは食べたり飲んだりしようがないですし、妙なことも、できません」
「そうよね。あんたの立場考えればね…だからあたしは頭が痛いのよ」
「それなら考えないでおきましょう?」
「は?」
「だって、どうしようもないですし。それより、お散歩しません?」
「はぁあ?」
リタの声が思わず険しくなる。だがエステルは、ほわわん、にこにこ、何処吹く風。
「今日は、ほら、とてもいいお天気ですし」
にこりと微笑んで窓の外を眺める外見年齢十歳未満のエステルの破壊力たるや、やはり凄まじい。リタの横顔を容赦なく殴打する。
「こんなお散歩日和は久しぶりです。こんな日に、お城の中にただいるだけなんて、勿体無くないです?」
「そういう、問題じゃ…だいたい、あ、あれじゃないの、あんまり外、その状態で出歩いたらマズいって、あんたさっき誰か呼ぶっていったらダメだって、ああもう!」
まったく、リタの明晰な頭脳を混乱させるコトなど造作もないのである。恐るべし、外見年齢十歳未満エステルの笑顔。しかも、悲鳴をあげるリタを眺め、なおにこにこしているものだから、タチが悪い。
「大丈夫ですよ。ちゃんと、お城の中でのお散歩です。リタには、迷惑かけませんから」
色々とつっこみたいのだけれど、つっこめない。なぜならば、この目の前の、ちっちゃくなったエステルの、普段と比べてややまるくなった顔の輪郭、相対的に大きく見えるぱっちりおめめ、子供特有のふっくらした上に赤みがかっている頬に小さな口、何より無邪気なこの笑顔。
――あ、だめ。これは無理。ホント無理。何この罰ゲーム。意味がわからない。バカっぽい。あたしが。
この立ち眩みも奇妙な頭痛も、睡眠不足だけが原因ではあるまい。結局はこうなるのだ、いつだって。
「ねえ、リータ。お願いします。リタが一緒なら、大丈夫です」
そしてこの、甘ったれた物言いだ。
思わずもれる溜息が軽いのか重いのかなんて、わかるわけもない。
☆
結局リタの杞憂はといえば、杞憂で終わった。
ザーフィアス城内独特の、ご意見無用ぶりを目の当たりにするのは初めてではないのだが、ことエステルに関してはそれが良い方向(?)に働いてくれたようだ。リタが連れている少女が、外見的特徴その他からどう見てもエステル本人であることを咎める人物は、誰もいなかった。
「それはそれで問題よね…いろんな意味で」
「リタ?何かいいました?」
「んー、なんでも…」
が、動きやすいのは好都合、と思うことにする。この城内の謎ルールに関しては、リタは諦め、納得していた。なにせ頂点に君臨するあの若き皇帝陛下は、たいへんなクセ者であられるのだ。
リタが非常にめんどくさそーに、けれど満更でもないような、年頃の少女らしからぬ複雑な面持ちで木陰に座り、分厚い書物をぺらぺらめくっているその脇で、肝心のお子様エステルはといえば、そう広くもない庭園の中を、楽しげに駆け回っていた。背丈が低くなったことで、いつもと見えている景色が違うのが、彼女の感性にいたくヒットしたらしい。はしゃぎ方が尋常ではない。
「あ、ほらほらリタ、こんなところにもお花が!こんな影でも、ちゃんと咲くんですねぇ」
「そりゃそうでしょ、日陰に咲く花もあるんだから」
「そうでしたね!あっ、あんな奥にも!」
リタと話をしたいのか何なのか。気ままなお姫様はマイペースに、リタがそこにいる前提でにこにこ駆け回っている。こっちの都合なんてどうでもいいんだから。そうは思いながらも、リタも彼女と過ごすこんな時間が、嫌いではない。手にしている本の事を、忘れるくらいには。
「…なんにも目的なく、こうしてるのも、悪くはないのよね…」
目的はあるのだが、そんな風に考えてしまうのは、多分彼女と一緒にいるからだ。
「わあ、ほら、この影にも花が、たくさん咲いてますよ…!」
「そうねー、あ、でも、迂闊にひっぱったり触ったりしないでよ、あんた今…」
「あ」
ぽて。なんだか鈍くさい音と共に、見事に芝生ダイブをしてしまうエステル。それを見るや否や、本を投げ出し慌ててリタは駆け寄る。あぁもう、怪我なんかされたら、面倒なんだから…!
「エステル?大丈夫?」
「あぅ…大丈夫です……ちょっと、転んだだけです…」
「…なんだかあんまり大丈夫そうじゃないけど、…怪我は、してないみたいね。ったくもう、そういうとろくさいところ変わらないんだから…」
そうは言うものの、手のひらはちいさな傷がそこかしこについていて、指先には切り傷もある。リタは常に携帯している小道具袋から清潔な布と消毒用の水を取り出して、ちいさなもみじの手のひらを取ると、手早く消毒をしてやった。
「ありがとう、リタ。慣れないと、やっぱり不便ですねえ」
「不便ていうか、…それだけで済んじゃうあんたのこと、ほんっと尊敬するわ」
手当てを終えても、なんだかちいさな手のひらを離すのが名残惜しい。そう思ったのはリタだけではないようで、エステルも手を離すことなく、けれども妙に真剣な面持ちでリタを見上げる。
「考えても仕方ないことは考えないでいい、って教えてくれたのは、ユーリです」
「わかった。とりあえず事が済んだら、あいつ殴るわ」
「ダメですよ!リタはそういうと絶対にやっちゃいますから、私の許可なしにユーリを殴ってダメっていうことにしておきます!」
ぷりぷりと頬を膨らませて抗議する外見年齢十歳のエステルの破壊力以下省略。
このまま手を握っていたら、色々な意味で耐えられない。色々な、意味で。頬は既に熱いし。
「……と、とりあえずほら、手は平気。もう転ばないでよ」
ぱっとリタが急に手を離すと、エステルはことりと首を傾げて、不服そうな表情を一瞬してから、頷いた。
「はい。気をつけます。リタと一緒にお休みします」
言うなり、エステルは再びリタの手をとって、先ほどまでリタが休んでいた木陰まで得意げに先導する。小さな歩幅と、リタよりも身長が低いくせに胸をそらして歩く様が、なんだかとても子供っぽくて、かわいらしい。
――あたし、子供なんて、好きじゃなかったんだけど。
でも、触れている手はあたたかい。ふわふわゆれる桃色の髪の毛が、愛らしい。本末転倒だけれども、もうちょっと一緒にいてもいいかな。そんな事を、つい考えてしまう。エステルもいつもよりはしゃいでて、楽しそうだし。
「リタ、お昼寝です」
木陰に二人で座るや否や、そんな事を言い出して、こてんと転がり、リタの膝を枕にむにゃむにゃし出すエステルのやわらかい体温は、そのままリタの眠気を優しく誘う。
耳をくすぐる風の音や、石造りのお城の中に、そこにだけぽとんと落とされた陽だまりの心地よさ、ちいさなエステル。
時間は、なんだかとてもゆっくり流れているようだ。
少しくらい、いいわよね。
ゆるい心地よさと共に囁くのは、自分の声か、それとも別の誰かのものなのか。そのまま、ふう、と息をこぼして、リタは瞼を落とした。
☆
「一日一緒にいてみたけれど、よくわからないわ…暫くこのままかも知れない」
結局何の成果も得られなかった、と、複雑な表情で報告するリタとは対照的な、ヨーデルのこの落ち着き払った態度は何だろう。自分もついうっかりうたた寝をしてしまった後ろめたさから、あまり詮索も出来ない。
「そうですか。けれど、それならそれで、何とかなりますよ」
「…え?」
「私はあなたのことを、信頼していますから」
あぁ、そういやこいつもあのコと同類だ。この、もう、完全に信頼しきってますよ、っていう顔。
「まだ結論を出せる段階じゃないし、そもそも」
「ええ、焦らなくとも大丈夫です。何度も言いますけど、他の一切は私に任せてください」
彼ならばその程度はなんとでもやってのけるだろう。その、ある種のタチの悪さを、リタは経験上よく知っている。
「わかったわ…」
「それに、けっこう可愛らしいですよね」
「……はぁ?」
「そうは思いませんでしたか?」
――こいつ、わかってて言ってるわね……。
ぐぐ、と握り拳を作りたくなる衝動を、リタは必死に堪えた。一応相手は最高権力者。帝都ザーフィアスに君臨し、大陸を統べる皇帝陛下。一応。リタも多少堪えるということを(以前と比べて)学んだお年頃である。
「実は城内では評判なんですよ、可愛らしいと。実際あれくらいの年齢の時のエステルは…苦労ばかり、していたようで」
ああ、そういうこと。
少しばかりゆらぐヨーデルの声は、リタのちいさな憤りを収めるに充分だった。そして納得する。だから、誰も何も言わなかったのだ。確かに、彼女の生い立ちを考えれば無理はない。
広い城の中とはいえ、軟禁生活だ。楽しみといえば書物くらいで、だからこそ、外の世界にとてもあこがれていて。
「…これは、彼女にとっての、ちょっとした休暇なのかな、と思うんです。原因はわからないですけど、それもいいのかもしれませんね」
リタは、頷きも、否定もしなかった。出来なかった。
「そう思ったから、あなたを呼んだんです」
「…………あんた、ほんと、…いい統治者になるわ…」
思わず素で返してしまったリタに、ヨーデルは全部わかっているのだ、という笑みをさらに深めて頷いた。