エステルの指は、細い。
 もう少し気のきいた表現をするならすらっとしていて、作り物みたいに精巧。その指先にはつややかな桜貝色の爪がちょこんとのっていて、(身の回りはきちんとしていて当たり前の)お姫様らしく丁寧に整えられていて、要するに指そのものがひとつの芸術作品みたいだった。もちろんきれいなのは指だけじゃないけれど、リタはエステルの気に入っているところと尋ねられれば、そのきれいな指先と髪の毛、と結局は答えるだろうと思う。
 だからうっかり乱暴に扱ってしまったら壊れかねないと、まるで魔導器を扱うような繊細な手つきでもって、リタはそのちょっとした神様の芸術作品に清潔な包帯を巻いていった。

  「はい、こんなもんでいいんじゃないの」が、あくまでも態度と言葉はそっけない。それがリタ・モルディオだということをよく知るエステルもまた、ニコリと微笑んで謝辞を示しながら、今しがたリタの手先がくるくると踊っていた指先を改めて眺めて嘆息した。

「リタがこういうこと、上手なのはちょっと意外でした…」

 エステル的には何気なく呟いた言葉だったのだが、リタにとってはちょっと心外だった。だからあからさまに顔をしかめて―ついでに頬をぷっくりと膨らませてふん、と鼻を鳴らす。

「魔導器ってのはデリケートなのよ、ちょっとしたことで壊れちゃうし、トンでもないことになるんだから。手先が不器用な魔導士なんて聞いたことないわよ!」
「あっそういう意味じゃないんです!リタがとっても器用なのはよくわかりますよ、けど、こういうこともささっとやっちゃえるんだなあ、って」

 慌てててのひらをぱたぱたと振りながらエステルが謝るが、謝られたからって素直にはいはいと許すようなリタではない、たとえそれがエステルだったとしても、だ。エステルが顔を近づければ反対方向を向き、慌てて背後から回ればまたそっぽを向き――端から見ていれば仲良し姉妹がちょっとした喧嘩をしているだけなので一様に微笑ましく見守るのが友人として嗜みなのだ、などとユーリは嘯いてカロルを納得させているのだが、当人たちにとっては、ちょっとした、大問題。

「あったりまえでしょ!あのね」

 エステルのごめんね攻撃をひらひらと華麗にかわしていた魔導少女も流石にウンザリしたのか、お得意の腰に片手をあてながらぴしりとエステルの鼻先に指をつきたてる。そのポーズがなんだか怒って背中を逆立てている猫に似ている、だなんていったのはユーリだったかレイヴンだったか。まあ、どっちでもいいけど、バカっぽいし。

 「あたしは魔導士よ!魔導器を扱うのに、その程度の怪我なんてのは日常茶飯事、そんなのにイチイチあんたみたいに悲壮な顔して治癒術なんか使ってらんないの!けどそのまんま作業なんてもってのほかでしょ?その程度の準備を常にしてない魔導士なんて、そもそも魔導士のはしくれにもおけないワケ。わかった?」

 リタの突然の剣幕に、エステルは理解するしない以前にとりあえずうんうん、と頷くしかないような顔で頷いている。ほんとにわかってるの、この子?怪訝そうに眉をしかめていると、「あ」と何かを思いついたのか―納得したのか、ぱっとエステルの顔が輝いたかと思いきや、きゅっとリタの指先を握ってくる。リタの心臓が、一瞬にして縮み上がった。

「わかりました、リタもいっぱい怪我してるから、包帯の巻き方が上手なんですね?それじゃあ、私もいっぱい怪我するよう、がんばります!」
「そ、そうそう、そうそう…わかればいいのよ、わかれ…え?」
「リタにはいつもいつも、いっぱいいろいろ教えてもらえますね。こういうとき、私なら治癒術使っちゃいますから」

 にこっと微笑を重ねられて(これもエステルの得意技だ、それもタチが悪い方の)反論を封じられ、ついでにとすんと一緒に腰をおろすはめになって、こういう椅子とかがない場所に腰を掛けたらまたフレンが口やかましく怒るのになあ、と別に気にもしていないどうでもいいことをチラとリタが考えているスキにエステルのそれはそれは"楽しそうな"顔が目の前に、鼻先がちょっとぶつかりそうなくらいの距離にあった。

―――顔、近いっ…!

 ひゅ、っと思わず息を呑んでしまうくらいの、ついでに縮み上がった心臓にはまことに宜しくない至近距離だというのに、腹立たしいかなエステルは意に介する様子もない。さーっと顔面が赤くなって熱くなってゆくのを抑えられなくて、深呼吸。吸って、吐いて、吸って、吐いて――ああもう、ぜんっぜん、意味ない!相変わらず控え目に指先だけを握られたままなのだ。隣にエステルの体温があってふわっと甘い香りが漂う。ああああそうじゃなくって、そういうんじゃなくって、話、話しなきゃ、なにか、なんでもいいから!

「けど、その、そうそう使っていいもんじゃないでしょ、あんたの!それは!」

 不自然に勢い余った言い方になってしまったのだが、リタの言葉に「そうですよねー」と返すエステルの表情がさっと変化した―というか、声のトーンが少しだけ落ちたことにリタの"敏感な"耳はすかさず反応する。「あ、えっと、…だから、あんたもそうぽんぽん治癒術使っちゃわないように、こういうこと、ちゃんと、覚えないと…」なんなら、あたしが教えるから…口の中だけでエステルには聞こえないよう呟いて、それでもなんだか顔から火がぼわっと出てしまうくらい恥ずかしくて、穴があったら入りたい。冷たい土の中に潜りたい―ああ、なるほど、だからあたしはアスピオに住んでるんだ。とりとめもなく、関係のない想像を現実逃避にしてしまうくらいには、リタは見事に追い込まれていた。
「そう、…かもです、ね。えっと、確かに、リタの言う通り、なのかもしれない、です」

 エステルの言葉の妙な歯切れの悪さが、許容量一杯で飽和しかけていたリタの余裕をちょっとだけ取り戻した。チラっと目の端だけで確かめると、うーん、と呻るように考え込んでいるエステルの横顔は、真剣だ。「私、お城にいたころは、そういうことは…考える機会もなくて。まして、友達が怪我をしちゃったら―それは大切なお友達ですから、すぐ、私にできること、治癒術使っちゃおうって、考えちゃうんです。私にはそれが出来ちゃいますから」ふふ、となんだか困ったように笑みを向けられるとリタもなんと言葉を続けてよいものかわからなかった。そうでなくとも、思考回路は控え目な表現で少しばかり鈍り気味だ。
「だから、リタがぱっぱっとこういうこと、簡単にやっちゃえるの、…ちょっと、びっくりして、…あと、羨ましかったんです」
「…羨ましい、って…」

 何よ、その、面白くもなんともない冗談、バカっぽい。自分の、このどうしようもない状態を誤魔化す憎まれ口すら呟くことすらもできなくて、脳裏に反芻する言葉がなんだかとても虚しい。それもこれも、すぐそばにいるエステルが、こんなに近くてけれど妙に寂しそうな顔をしているのが、多分原因だ、きっとそうだ。「別に、こんなの、あんたならすぐ、覚えられるわよ…」頭の中はぐるぐるとああこんなことを言いたいわけじゃないんだとか、もうちょっと言葉選ばなきゃならないとか、エステルの寂しそうな顔に心臓がきゅっと縮まる感覚がたまらなくいやだとか、なんでこんなバカな話してるんだろうとか、次々と考えなければいけないことが増えては減って、減っては増えて、思考の大渋滞を引き起こしていた。魔導器の事を考えていればこんな風にはならないのに、だなんてこともそのうち何度か考えて憤っても、どうにもならない。

「私でも、覚えること、できます?」

 が、リタの言葉に光明を見出したのか、ことりと首を傾げながらも、きらきらと輝く翠の瞳はとても嬉しそうで、先ほどまでの翳りはウソのよう。ぱっと明るくなったエステルの顔を見て、リタはつい唇をぎゅっと噛む――だって、そうしていないと多分頬が緩んで仕方なくて、そんな顔を見られるのは悔しいし恥ずかしいから。

「で、きるわよ、そんなの…あ、でも、言っとくけど、常に清潔な包帯とか、そういうのは持ち歩いてないと駄目だからね、汚れてたら話に、なんないんだから」ああまたこういう余計なことを口走る!そうは思うけれども、うんうんと頷いているエステルのほんのり上気した頬がつやつやで、桃色のキレイな髪がさらっと揺れる様子を目の当たりにしたらどうでもよくなった。心の中はすとんと整理がついて、頭の中のぐるぐるもいつのまにかどうでもよくなってる。バカっぽい、ほんっとバカっぽい、あたし。

 はあ、とわざとらしく溜息でも落とさないと、なんだかやってられないし、妙に疲れる。それはさっきまで奇妙な感覚で頭の中が一杯になっていたからに、違いない。

「ふふふ……」
「何よ、何、そんな、おかしいの?」
「ううん、嬉しいんです。リタと一緒に旅が出来てよかったなあ、って」
「……はぁ?」
「だって、一緒に旅をしてなかったら、きっと私、こういうことに気がつけなかったです。治癒術を使えばいいとか、魔導器を使ってしまえばいいとか、簡単に考えてましたから」
「何それ、当たり前のことでしょ。だいたい魔導器ってそういうためのものよ」
「だから、です。当たり前だけど、大切なことなんだって。だから、安易に使ってしまうのも、何だか違うのかなあ、って」

 自分の導き出した結論がよほど嬉しいのか、エステルの顔ときたらまるで子供みたいにきらきらしている。うん、この子にはよくあること。よくあることだけど、正直この表情が直球で自分に向けられているという事実は、こそばゆくて、恥ずかしくて――ものすごく、嬉しい。

「この、包帯の巻き方にしてもそうですよね。指、苦しくないですし、けどこんな風に動かしても外れません!」そりゃあそういう巻き方をしたんだから…とは、口を挟める雰囲気ではなかった。誇らしげに包帯をした中指を繰り返し曲げてにこにこしているエステルときたらほんとうに、もう。

「あー……わかった、わかったから…わかったわよ。こんなので、そんなに大げさに喜ばれても、でも、こ、困る…の。もっと、ちゃんとしたのをね」
「はい、それじゃまずはこの巻き方、教えてくださいね?」

 素直にそう言ってみせるエステルは、たぶんとても"よい"生徒になるだろうなあとは思う。けれど、別な意味では苦労させられそうな予感も孕んでいる笑顔に、リタは目を白黒させたあと、観念したように溜息を再び落とした。