彼女は、きれいだった。
 純白の乙女は朝露を受けて輝く白百合のごとくで、楚々とした花びらを模して結われた桃色の髪と薄紅のヴェールも美しく調和していた。だからこそああ別の世界に彼女はいってしまったのだと納得するのに時間はあまりいらなかった。
 まばゆいばかりの白は断絶の色なのだ。残酷すぎる現実を受け入れるのは意外に簡単なことだったのだと思う。残酷すぎるからこそ目をそらそうとしても視覚で認めてしまうし華やかな周囲の声や空気や散りばめられた幸せそうな色とりどりの花々がすべてを祝福しているから認めざるを得ない、だから意外に簡単なことなのだ。
 胸の奥がつきつきとたくさんの針に苛まれ続けている感覚はなくならない。けれどリタ・モルディオはもう少女の面影もなくなった魔導研究の一人者としての顔でその場に正装で立っている。


 わあ、とその場に集った人々から歓声があがった。花が、たくさんの花びらが蒼天へんと舞い上がる。穏やかな風が甘やかな香りをすくい、その場を彩る。
 純白の衣装に身を包みこの世の幸を一身に集めたような女性と、隣にも同等に着飾り見劣りしないすらりと背の高い男性。ザーフィアス皇族エステリーゼ・シデス・ヒュラッセインの結婚式は、彼女の幸せな門出を祝うかのように素晴らしい好天に恵まれ、帝都の人々はこぞって祝福した。

「おめでとう、エステル。似合ってるわ、ほんとにね」
「リタにそういうふうに言われるのは、なんだかおかしいです」
「は?何ソレ。一番の親友が折角素敵ねって素直にほめてるのに、その言い草?」
「そうそう、リタはそういう感じです」

 リタとしては、世辞でもなんでもなく素直な感想を口にしたまでだった。そう、素直にきれいだと認めれば少しは――けれども胸の奥の疼きはかわらない。エステルと『以前のように』軽口を叩いても、変わらなかった。

「けど、しばらくはこれで会えなくなるのねえ」
「え?だって、引っ越すといっても同じザーフィアス内ですよ?」
「あのねェ……。前から言いたかったっていうか言ってるけど、そうほいほいと簡単に外出できるものじゃないでしょ。もう、あんたは」
「そうなんです?あ、リタが私のところに来ればいいんです」

 それこそごめんこうむりたいわよ!と思わず以前のように叫びそうになるのを、リタはぐっと堪えた。冗談じゃない。誰が悲しくて新婚家庭に入り浸れというのだろうか。相手の貴族はリタも知っている人物で、信頼も置ける。彼は魔導士らの新しい研究にも協力的だし、リタを尊敬していると公言してはばからない好青年だ――だからこそ、リタもこの縁談に関しては複雑な己の内心はともかく、賛同したのだ。
 少なくともエステルは彼に好意を持っていて、彼もまた同じだ――エステルの特異な生まれや力を知りそれでも尚、とリタとエステル二人に誓うくらいなのだ。

   だからこんなふうに、内心でやきもきしているあたしがばかっぽい。一番ばかっぽい。

 小さく、一瞬だけ唇を噛み、リタはくるりと瞳をまわす。

「そうね…今の研究がひと段落したら、そのうちお邪魔するわ。それまではちょっと無理。研究が大詰めだし」
「あ、そうでしたね。今日も、無理をいって…」少しばかり申し訳なさそうになる花嫁の唇に、リタはびしりと人差し指をつきつける。
「それと、これとは、別。あたしはリタ・モルディオよ。親友のために必要な時間を捻出するくらい、なんてことはないの」

 きり、とついでに眉を吊り上げると、エステルは逆にぷ、と吹き出した。

「うふふ、そうでしたね。リタですもんね」
「そうよ。あたしに不可能なんてないんだから」

 不可能はない。それは、あの旅以降のリタ・モルディオのモットーでもあった。そして彼女にはその才能もあったし努力も怠らなかった。彼女は魔導器なき世界にありながらも新たなる代用手段を見出し、それをまだ一部ではあるが普及レベルまで持っていった。その他にも短期間で多くの業績を成し遂げていた。
 けれど、彼女に近しい人間はみな口をそろえて言うのだ――彼女は、何かを忘れるために一身に仕事をしているのではないか、と。時には周囲が強引にとめねば睡眠すらとらず、貪る様に、或いは―そうしていなければ、正気を保ってはいられないのだといわんばかりに、彼女は研究を続けた。

   常にリタの心は研究に傾いていた。時折昔の仲間たちと会い、語り、食事をともにすることもあったが、それも年々少なくなっていっていた。その原因を本当に知っている者は、けれど口を閉ざしただリタを見守っていた。



 祝賀会場を抜け出して、リタはひとり、暮れ行く空を見上げていた。もう少しでこの空は濃紺に染まって、星が降ってくる。そういう高さまで登ってくるのは多少骨が折れたが、どうしてもリタはそこを目指したかった。理由は、ただそこを目指したいという切な過ぎるくらいの想いだけだった。
 こうして帝都ザーフィアスの高い塔から見上げる夜空は、まるでその手に掴めそうだと錯覚するくらいに近くて、そして降り注ぐ数多の光に圧倒されそうになる。
 正装のまま、リタはひとり、祝賀会の会場を抜け出してここまで来た――途中、不幸な番兵に軽いねぎらいの言葉をかけながら、リタは一心に頂上を目指した。皇女の友人が何故ひとりこんなところに、と声をかけてくる兵士もいたが、リタの奇行は良くも悪くも有名で、多くを追求されることもなかった。
 空はそれでも、高い。
 風がつめたかった。むき出しの肩を撫でてゆくそれは、夏場にしては涼しく、心地よいはずなのにリタは寒さにぶるりと震えた。

「寒い」

 く、と喉の奥を鳴らしてリタはつぶやく。見上げる星空はあまりにも星が多すぎて、チカチカしてきた。あそこには、星の神話がある。テルカ・リュミレースを守った兄と妹。そこにあるのは、空と大地に根付いた神話。
 こんなにも空に近いのに、そして大地とは離れているのに、リタは今、空にも大地にも自分の居場所はないと思った。今、自分は、どこにもいないのだ。

「寒い」

 繰り返す言葉に意味はない。
 空に飛んでゆく翼はない。けれど、大地に下りてゆくつもりもない。自分の居場所は、今、この場所だ。この、空とも大地ともつかない場所なんだ。

「寒いよ」

 寒いよ、エステル。
 友人の――友人、というだけではすまなかった、とてもたいせつなひとの名を、口の中でそっと転がす。風の音にかき消されあっという間に星空に散る呼び声。風が冷たい。じわりと熱くなったと思った目じりは、一気に冷えて風に拡散してゆく。

 彼女はいつだってそばにいたのに。
 彼女はいつだって、あたしを見ていたのに。

 あたしはいつだって彼女を見ていたのに。
 あたしはいつだって彼女のそばにいたのに。

 あたしはあたしのすべてで彼女を、彼女のことを、守っていたのに。
 あたしはあの子のすべてがすきだった。

 あたしはあの子のすべてを、愛していたんだ。


あと何秒で、きみを忘れられますか?