必要であれば、死んでも構わない―
それは、率直な想いで、感情。そして、嘘偽りのない、エステリーゼ・シデス・ヒュラッセインという人間の…エステルという少女のすべてだった。
世界の毒、或いは満月の子―その力はエアルを乱し、いつか必ずテルカ・リュミレースそのものに害を為す存在。だからこそ、すべてを正すためにも存在を葬らねばならない。
粛々と告げたフェローの声、深い色の瞳の重さ、静けさを伴うからこその圧倒的なその佇まいは、まさに始祖の隷長たる風情だ。
そんな古よりの番人を前にすれば、エステルという一人の存在はとても、あまりにも、小さい。
その小さなエステルの言葉は、かの存在の前で如何ほどの意味を持つのだろう。
エステルの中に在る幾多の言葉は、恐らく殆ど無意味に通り過ぎる―それどころか、意味を持つものと認識されるかどうかすら疑問だ。エステルという人間のすべてをかけても尚、届くかどうかわからない。
背後にいる、隣にいてくれる仲間たちの存在を認識していなければ、きっと口を開くことすらも出来なかったに違いない。
そして、エステルという存在に対するフェローの言葉は、あまりに正しく、あまりにも明確で。
とても、残酷だった。
エステルの言葉に、ユーリは腹を立てていた。
ジュディスは、ただ、気遣ってくれた。
カロルの純真な瞳はエステルを精一杯気遣っていた。
レイヴンの飄々とした変わらぬ声や、ラピードのいつも通りの素っ気ない態度が少し有難かった。
そしてリタは、とても悔しそうで、哀しそうな目をして、唇を震わせていた。
「あの」
エステルの呼びかけに、すぐさま応じる事が多かった小さな背中。今は、何も応えてはくれない。
きっと、彼女はユーリと同じように、怒っている。そういう事を、自分は言ってしまった。
「あの、リタ。あの…、…ごめんなさい」
「何が」
はっきりとしない謝罪に対して即座に返ってくる声は、つっけんどんではあるが、そこまで冷たくなかった。
「あたし別に、怒ってないから」
続く言葉も振り返る表情も、どちらかといえば、いつも通りのリタだ。
それでも、その中に違和感を見出せるエステルの胸の奥がはっきりと痛む。
すぐに応じずに沈黙していた小さな背中。
どこか強張っている、声と、表情。
語尾がいつもよりも乱暴で、言い終えてから何度も瞬きをした――リタのことならば、知っている。何でもとまではいかないが、よく知っているのだ。
リタという少女の事を、天才魔導少女としての側面も、そうではない側面のことも。彼女の知識と感情のアンバランスさも、真っ直ぐさも、態度のきつさとは裏腹にとても優しいということも。
共に旅をするようになってから、隣にいることが多かったから、リタを良く見ていた。だからエステルは知っている。
リタにも、余裕がないのだ。
当然だろう。エアル、魔導器、始祖の隷長、聖核、そしてリゾマータの公式――それらは、おそらくリタの中では有機的に繋がりかけている。つまり、彼女が求める真実に、強く望む結論への道筋が見えている、ということだ。
そしてそれは、エステルを救う道に繋がる。だから、彼女がこんな態度をとるのは、仕方がないのだ。
「リタ」
エステルは少女の小さな手を握った。繊細な手つきで魔導器を操り、魔導を繰る指先が、今は随分とボロボロになっていた。わずかに汗が滲んでいた。
何故そうなったのかなど、あえて考えるまでもない。他でもない、エステルの為なのだ。こみ上げてきそうな熱いものを堪えて、エステルの喉がく、と小さく鳴る。
「ど、うしたの」
エステルのとっさの行動に、当のリタは不審そうに目を細める。
「ごめん、なさい」
大きな若葉色の瞳がくるりと回った。
出てくるのは、そんな謝罪の言葉ばかり。どうにも謝ることしか出来ない。それ以上のことを、今の自分には出来そうもないとエステルは思うのだ。
指をゆるく握ったままに視線を落とし、改めてリタの手を見れば、愛用の指ぬき手袋から覗く肌は、すっかり荒れてしまっている。『魔導器を扱うのなら、最低限手先は清潔に、綺麗にしておくのは常識ね。傷なんてもってのほか、魔導器はあたしたちよりもずっと繊細なんだから』――そんなことをよく言っていた、リタらしからぬ失態だ。
エステルは唇を噛んだ。
そうしていないと、もう堪えられない。視界の中の、まだ幼さを残す指先にところどころ走る赤い色が、滲んで、揺らいだ。瞬きをすればぽろりと零れ落ちそうなものを見せたくはなくて、エステルはぐっと息を飲み込む。
「ごめんなさい、私」
くぐもった声で続けようとすると、突然リタが手を離した。
「リタ?」
みるみるつり上がってゆく大きな瞳。水の膜が揺らめいて不安定な若葉色の中に、ありったけの理不尽さを閉じ込めて、少女はエステルを睨みつけていた。
「別に怒ってなんてない。でも」
リタの声は押し殺されていて、震えていた。
とっさに伸ばした手はすげなくリタ自身により拒まれてしまい、行き場を失う。虚空に投げ出されてしまった自分自身の手を、エステルはどうしてよいのかわからなかった。
「でも、あんたのそういうところ、あたしは嫌い」
フェローが去った後、ユーリはエステルが見たこともないような顔をして、感情を押し殺そうとしながらも出来ずに、それでも努力したような声で切々と告げた。
低く、余裕がなく、震えていて、哀しそうな――エステルの知らない、ユーリの声で「二度というな」、と。
エステルの脳裏にもう一度響くユーリの声が、リタの声と重なる。そして、共鳴し、同一のものになる。
ごめんなさい。言葉は言葉にならず、嗚咽と共に空気を震わせるだけだった。