浮世の月

 かつて夢見ていた愚かで青臭くてちっぽけな、けれども絶対的な己が信念ともいえた理想。変り者などと言う言い方は控え目で、面と向かって狂人だと言われたこともあったし、ディノイア家の恥さらし、などと陰口を叩かれる事にも慣れていた。けれども、そんなものは理想を知らぬ小人が戯言だと若い頃は切り捨てていた。
 だがそんな下らぬ戯言はアレクセイという男が騎士団の中で頭角を現してゆくごとに、賞賛と尊敬、或いは畏怖と嫉妬へと変じた。
 賞賛の類は大いに利用し、畏怖や嫉妬もものによっては利用した。その頃の自分を支えていたものが何であったのかは、アレクセイ本人にすら、よくわからなかった。ただ、事をなさねばという執念が――信念などという綺麗な言葉ではとても表現できない、由来のわからない妄執のようなものが、ただ、アレクセイ・ディノイアという男の中二に渦巻き鎮座していたことだけは、はっきりしている。
 そうして漸く帝国騎士団長という一つの節目へとアレクセイが到達するや、人魔戦争とかいう下らない――ひどく馬鹿げた戦争は、アレクセイにとっては大いに役に立った。評議会、という騎士団と拮抗する力を持ちながらも決して相容れぬ(お互いの存在を考えれば、相容れなくて当然ではあるが)存在が大いに無力化したのだ。ここまで上り詰めれば、法的には対等とされている評議会長とてそうそう簡単には横槍を入れられまい――思えば、それが間違いだったのかもしれない。
 評議会の弱体化という機会を逃すアレクセイではなかった。これを好機と、水面下で進めていた魔導器の研究を推し進めたのだ。それは未だ行方の知れぬ帝国継承者の証たる「宙の戒典」の探索と並行して行った――万が一、「宙の戒典」が消滅している場合の可能性を、アレクセイは考えていた。
 ないのならば、作るしかない。なぜならばアレクセイは禁断の果実を手にしてしまった。本来ならば、例えば法の根幹たる皇帝が不在でなくば、アレクセイは果実を求めなかったかもしれない。「宙の戒典」があれば、皇帝不在であっても、或いは発見したとて、手を伸ばさなかったかもしれない。そもそも必要性すら感じなかったかもしれない。
 が、今のテルカ・リュミレースは皇帝はいない。「宙の戒典」も行方が知れない。法が法のために存在し、その法というものは確固たる基礎のないままただ効力だけが肥大化し、一部の人間の私利私欲のためだけに存在してしまっている。アレクセイ自身がそうした腐敗の側面を利用してきているから、なおさら痛感してきていた。そうした腐敗を利用せねば、騎士団長アレクセイは今ここになかったかもしれない。こうして、全ての頂点に立つことなどは間違いなくありえなかった。
 帝国という一つの強大な権力が歴史の積み重ねの末に得ていた力というものは途方もなく、帝国を変えるという望みは即ち世界に変革をもたらさねば成らされないのだと、アレクセイは知ってしまった。
 気付いてしまったことを、悔いたことはない。何のためらいもなく、アレクセイはその先に在る結論を見据えた。即ち、世界そのものを変革することを、望んだ。
 アレクセイは帝国だけを見据えていたかつての己とは、訣別した。帝国という古き因習から成り立つ存在を変化せしめるには、この世界にはびこる律を悉く破壊せねばならぬという途方もない絶望を、知ってしまった瞬間にだ。
 思えば、それがきっかけであったのかもしれない。だが、その真実は、アレクセイ本人にすらもうわからなくなっていた。

 シュヴァーンという道具は、優秀な道具たりえた。アレクセイの最大の駒足りえた。その働きはまさに道具と呼ぶに相応しかった。だから、アレクセイはシュヴァーンという自ら命を与えた道具を寵愛した。帝国騎士団長という位を自ら得たことでまず評議会を抑えたアレクセイが次にすることは、トルビキア大陸はダングレスト――帝国の体制を批判し、独立した「ギルド」を牽制することであった。掌握はできずとも、彼らを放っておく事はできない。まずは彼らを知り、パイプを作る必要がある。帝国体制に牙を剥く彼らは、武力にも優れている。その先のことは、彼らの出方次第と考えた。ゆえに、シュヴァーンという最も信頼の置ける道具を使った。果たして道具は道具としての最大限の成果を逐一アレクセイに齎してくれた。
 そうした外部に対して眼を向けていても、内部への監視も怠ることはできなかった。ゆえに、アレクセイは断行に断行を重ね、乱暴ともいえる改革を強引に推し進めた。勿論、評議会の反発は大きかったが、予め(手段を選ばずに)彼らの力を奪っていた。何度も苦汁を舐めさせられた相手である。とはいえ苛烈すぎる弾圧は我が身を滅ぼすであろうと考えていたアレクセイは、ある程度の力を奪う事のみに注力した。

 そうした強引な改革の最中、アレクセイは「懐刀」たるシュヴァーンに匹敵する逸材を発掘する。それは、まさに僥倖であった。アレクセイはこの時、我が改革こそ天意であると高らかに宣言したくすらなった。まさに、喉から手が欲しかった存在がひょっこり目の前に現れたのである。
 即ち、傀儡だった。
 アレクセイは貴族の出である。それは、アレクセイの武器でもあった。そうでなければそもそも騎士団長になどはなれなかったのだ。だが、ここに来て――つまりは、帝国の制度改革という大義名分を得て官僚を相手に戦をするには、些か問題が生じてきていた――民衆の不在だった。アレクセイは表は清廉潔白な騎士団長としての評判をほしいままにしていた。そのような演出に腐心していたからだ。だが、これから成すことはひとりの独裁者の強引な改革であってはならない。それは、一時帝国を変えるかもしれないが、結局は同じことになるだろう――そうした事実は、繰り返し帝国の、或いはそれ以前の文明の歴史書に記されており、アレクセイ自身もぶつかっていた壁だった。
 下町出身、フレン・シーフォ。帝国騎士という存在にひどく相応しくはないその文字を見た瞬間に、アレクセイは予感めいたものを感じた。そのような、理屈とはかけ離れた感覚をアレクセイは信じる性質だった。すぐさまかの者の上官を呼び、それとなく観察したこともある。上官に提出した報告書などにもすべて目を通した。結果、彼はそのひどく人の目を引く外見とは裏腹に、実直で生真面目で、そして酷く負けず嫌いなのだということがわかった。アレクセイが確信を得るに至った理由の一つには、その向こう見ずで理由不在の志しだった。何のためらいもなく、また騎士団長アレクセイを目の前にして、怯みもせず媚びることもなくただ自分自身の理想だけを告げた、率直さと豪胆さだった。
 フレンと言葉をかわした最初の夜に、アレクセイは戸棚の奥にしまいこんでいた酒を取り出し、澄み渡りすぎた帝都の冬の空に杯を傾けた。それほどに、心が沸き立っていた――久しぶりの、感覚だった。己の感情などさして省みることのなかった男が、久しぶりに浮かれた心地を思い出した夜だった。

 こうして、己の心を知り尽くし無心に手足となり動く道具と、アレクセイに唯一不足であった「民の為の民の英雄」に値する傀儡を得たアレクセイは、徐々に己の絶望と向き合うことが出来るようになっていた。
 それは、いっときの絶望という感傷から発生したものであったかもしれない。野心という言葉は己を鼓舞し、客観視しながらも邁進するためのもの。嫌いではなかった。それが野心であっても構わぬと思った。王道ではなく覇道と呼ばれる道のりであることも、理解していた。恐らく、いや、間違いなく自分は悪党である。悪党で、だが構わなかった。世界を変革するには、悪党が一人、ではものたりない。悪党は稀代の悪党たりえねばならない。そして、その稀代の悪党は例えばギルドの長ドン・ホワイトホースでは駄目なのだ。評議会では駄目なのだ。アレクセイ・ディノイアという男でなければ、駄目なのだ。

 だが、アレクセイは稀代の悪党ではなかった。

 悪党を望みながら至った道は、大いなる道化の道のりだった。
 己がただの道化であったことは、乾いた笑いでしか、表現は出来なかった。即ち己の生涯を賭けたものは、ひどく矮小なる存在が天意という大いなる存在の手のひらの上で踊っていただけなのだ、と、その時にアレクセイは真の絶望というものを知った。
 己がひどく、滑稽だった。
 今まで歩んできた道のりの艱難辛苦を思えば、ひどくばかばかしかった。
 一瞬にして、全てが、まるで空虚な絵空事へと変貌し、己を、嘲笑っていた。
 アレクセイ・ディノイアという一人の男は、その瞬間に死んだ。魂を失った肉体は、ただの入れ物だった。空虚で、滑稽で、ばかばかしく、矮小で、省みられることもない石ころ同然だった。

 だから、そんな入れ物を殺すもののことなどは、どうでもよかった。
 だが、入れ物を入れ物ではなく最期の最期までアレクセイ・ディノイアと信じた二人の男の視線だけは、ひたすら虚空に漂う根を失った魂に最期の何かを、取り戻させていたのかもしれない。ただこの無常な世界の中で、確かに輝き続けていたかつての栄光の、その、残滓だったかもしれない。
 だが、残滓であったとしても、一瞬にして霧散してしまったアレクセイという男の軌跡があった。
 今や民衆のみならず一部貴族、騎士団からも希望の象徴であるフレンは、アレクセイの非道と悪行を怒り、断罪すべく騎士の剣をつきつけた。苛烈な怒りと悲しみを同時に瞳に宿しながらも、その強さはアレクセイという空虚な男を貫いていた。
 シュヴァーンとしての己を捨て去り、訣別しレイヴンという偽名を己の名と心得た一度死んだ男は、その人を食ったような飄々とした態度の中にも怒りと哀愁を同居させながら、弓を引いた。迷いはなく、ためらいもなく、さも日常的な行為のように。

 その瞬間に、アレクセイの心はふわりと浮上したのだ。その、二対のまなざしは、絶望の底に沈み、馬鹿ばかしさに乾いた笑いしか浮かべられなかった、ひどく虚しく悲しく可笑しくてたまらないその時に、幻ではなく、確かに存在する肉声を伴う切っ先になった。アレクセイがかつて寵愛した道具と傀儡は、主人に刃をつきつけた。即ちその行いは悪であり、あってはならぬものであり、間違いであると、揺ぎ無く当然の真理と示してきた。

 二人の、ただそこにある眼差しは、アレクセイという男が滅びに足を踏み出すその瞬間までを、見て取っていた。そこに確固たる魂もない、空虚な入れ物でしかなくなった一人の、憐れな男の末路を、ただ、じっと見据えていた。

 それが、救いになったとは思わなかった。そういう判断すら、もう出来なくなっていた。思考という思考は、既にアレクセイの中には存在していなかった。ただ、自分はもう役目を奪われ退場するのだという切実な認識だけが脳裏を占め、魂は肉体を離れていた。
 けれども、同時に、たまらなく嬉しかった。
 それは、確信を得た歓びだった。天意は、我がもとに。更なる絶望と諦観の末の二度目の確信は、恐らく間違いではないだろう。レイヴン。フレン・シーフォ。既に解き放たれた道具と傀儡は、間違いなく光を齎す存在たりえる。不思議な確信だった。若かりし頃に抱いていた、臓腑がせりあがってくるような、行動しなければならないという焦燥感を焚き付け只管に先に見た理想へと奔る、ただただ邁進している瞬間の高揚感のようなもの。夢心地のような、熱病のような、不安定でひどく心地のよい、そうだ、この、どこまでも広がっている空にも似た憧憬だった―――――。