そこにあるのは、かすかな風の音と、緩やかに繰り返される波打ち際の情景。人の手を離れて久しく――かつては人が築き上げた叡智の結晶であったそれは、今はただ広く穏やかな海洋の中に、孤独にぽつんとそれだけがあたりまえのように存在している。その有様はまるで打ち捨てられた浜辺の船が、久遠の時をかけてゆるやかに朽ちてゆくようだ、と思う。そんなものは、実際に見たことはない。幼い記憶にもない。特に読書家というわけでもなく、絵画にたしなみがあるわけではなく、そもそもそうした娯楽とは縁遠い。けれども、多分有形の何かが静かに滅びに向かう様がまさに目の前のそれなのだ。
静寂の墓標――そういえば格好の詩吟の材料に思えるが、実際この場に立ってそのような情緒を感じる人間はおそらくは一握りしかいないだろう。或いは、片手で数える程度。
蒼天の下巡るゆるやかな春風は、潮気を含んでいてもどこか柔らかい。騎士が騎士へする最上位の礼をして見上げた空は、高く、遠く、どこまでも続いているように見えた――かつてそこに、人々を脅かした脅威が存在していたことは御伽噺か或いは良くできた作り話であったかのように、決して手の届かぬ崇高な存在であるように。
「きっと、僕にとってはこの空だったんです」
気配を感じさせない同行者に向けたものか、未だ胸の内にくすぶりつづけている正体を把握したくはない感情を抱え続けている己に向けたものかはわからない言葉を口にして、腰に掲げていた馴染まない剣をすらりと抜く。副官や部下にはすぐ違和感を問いただされ、特に言い訳をすることはなく出てきたけれど、彼らやこの剣を探し続けていたことを知りさり気なく情報を掴んでくれた友、共に探してくれた同行者にも、自分の心の内などは見えてしまっているのだろう。そう思うと何かがおかしくて、フレンは小さく笑った。
「俺様にとっちゃあ、もっとでっかくて、もっと重たくって、途方もなくて太刀打ちできないってカンジだったねぇ…」フレンの視線に倣うように陽光を受ける抜き身の刀身を眺めながら、返ってきた言葉は相変わらずの調子だった。おどけた身振り手振りを沿えて、溜息だか自嘲だかわからないような声を落としながら、しっかりと言葉の意図は汲んでくれる。いつもどおりだ。その事に、フレンは幾分か安堵した。
「じゃあ、それは僕と同じじゃないですか」
「そうかい?おっさんのは、いろいろ思い出すのも面倒くさい、頭痛の親みたいなお世辞にも愉快じゃあない思い出だけど」
そうした話題ですら、「冗談のネタ」みたいにサラリと話すレイヴンは、フレンが知っているレイヴンという男の記憶と変わらぬままだ。飄々としていて、所在が掴みにくい、まるで風に舞う木の葉のようにふわふわと一定の軌道を持たない正体不明の男。
正式に騎士団で一部隊を率いている(最もそれは「死人」シュヴァーンの名を冠した形式上の部隊であり、隊の行動の責任は別の人間が受け持っている)にも関わらず隊服を纏うこともないし、鎧は重いからごめんだ、なんてふざけたその言い分を現騎士団長フレンは黙認している。
「その名を帝国の正式な記録に記載するに値わず、簒奪者アレクセイ・ディノイアとしてその罪と名を永久に留める。これは帝国皇帝ヨーデル・アルギロス・ヒュラッセインが公式の見解であり、その意図を変じて記す或いは伝聞することを禁じる」
それが騎士団、ひいては皇帝の決定だった。ディノイア家はお家取り潰しになり領地屋敷は没収、墓所も貴族が埋葬されるそこではなく獄死した政治犯扱いとして名のみを記されたものが、有象無象と共に葬られた。当然アレクセイの遺体の回収などはされてはおらず、そこに眠るのは政治犯アレクセイという名の形骸のみだ。故人を慕う人間が少ないものの皆無ではなく、そこから叛乱の息吹が芽生える可能性はゼロではない。ゆえに皇帝ヨーデルは徹底した処置を施した。アレクセイ派の人間は悉く罰せられ、政治上の息の根を止められている。
それを横暴だ、とフレンは反対はしなかった。騎士団長としての立場もあったし、帝国のみならず世界に対して牙を剥いた男は、罪人として罰せられねばならないその理は理解していた。法律という枠ではなく、それは多くの感情を交えた必要な断罪なのだ――たとえ、それが死人に鞭打つような仕打ちであったとしても。
が、それでも、フレンの記憶にある在りし日のアレクセイが消えるわけではなかった。レイヴンにしても、同じこと―或いは、フレン以上に思う所があるのだろう。ダミュロンという名で生まれ、シュヴァーンとして死に、レイヴンという名で三度目の人生を歩んでいる男とかの騎士団長が因縁浅からぬ間柄であったことは、既にフレンも知るところであった。
「同じことです。けれど、時間が経ってみれば、結局僕は感謝しているんです。僕が信じたアレクセイという人間は、きっとアレクセイという人間の一部だったと信じているんです。都合がいい思い込みであれ何であれ、僕にとっては騎士団長アレクセイ・ディノイアは政治犯であると同時に尊敬すべき人であることに、変わりはないんです」
天に捧げるように剣を掲げ仰ぎ、続けて切っ先を地に向け、つける。カツン、と乾いた音がした。「騎士団長フレン・シーフォであると同時にただのフレンとしても、その崇高な魂に感謝と憧憬を抱き、末の安寧を願っています」
「まったく、途方もないのは似たもの同士ってわけ。ああコワイコワイ」呆れるように、レイヴンは肩を竦めて見せた。口調とは裏腹に、ひどく愉快そうに。
「それにしても大将の剣、よく見つけたわよねぇ…執念ってやつ?」
首をぐるりと回しながら、着崩した袖を玩びつつレイヴンはフレンの表情を伺う。年齢に相応しくはない―けれどこの男らしいふざけた笑いを浮かべた表情に、フレンはあっさりと頷いてみせた。「どうしても間に合わせたかったんです」
「ははっ、そうよねぇ……ってまあそう断言しちゃうのがフレンちゃんなんだけど」
「けれど、それはレイヴン隊長が手伝ってくださったからですよ」
「隊長じゃないでしょ、俺はレイヴン!」
「ルブラン達が泣きますよ」ルブランを始めとした一部騎士は、意気揚々とレイヴン隊を名乗り、今日も今日とて下町の巡回に勤しんでいる。彼らの実直な働きぶりがあればこそ様々なはからいの上で各地を飛び回っているレイヴンにしてみれば、それ以上何かを言いえばどんどんとボロが出ると悟ったのか、蛙がひしゃげたような呻き声で呻り、それから盛大な溜息をついた。
「フレンちゃんてば大将より人使い荒いんだもの、こんなだってわかってたら、おっさんまじめに宮仕えするなんていうんじゃなかった…」そうは言うが、そこには以前垣間見えた小さな違和感はない。ユーリ達と旅をしていた頃のレイヴンのことをフレンは多くは知らないが、あのシュヴァーンと同一人物であると言われて頷ける位には、二人の男には共通した影と底知れなさがあった。が、今のレイヴンにはその「重さ」がない。帝国騎士団とギルドの調停役として多忙な日々をそれは楽しげに送っている様子を、ユーリは「いよいよ殺しても死なない出鱈目さを身につけた」などと言い笑った。
「僕はアレクセイ団長に比べたらまだまだ未熟です。けれど、同じ力を持ってしまった。だから、補い切れない部分は頼ります」
団長。自ずと出たそれは完全に無意識だった。あっけにとられたようにレイヴンが目を見開いて、それから笑う。「ま、そういうことなら仕方わね、青年にも釘刺されちゃってるし。こんなおっさんでよけりゃ、幾らでもこき使って下さいな、騎士団長閣下」気安くぽんぽん、と肩を叩かれると、まるで万力を得た心地だ。歩む道を違えた友が「置き土産」だなんて言いながら押し付けてきたこの男は、今のフレンには必要不可欠な存在になっている。
抜き放った剣を鞘に収める。ここは、墓標だ。ザウデ不落宮という形骸化した過去の遺物、その記憶の幽かな一部として、アレクセイという男は眠っている。彼が果たして死するときに何を見、何を思ったかはわからない。驚愕に見開かれた目が、一直線に自分に向けられていたことの意味も、完全に理解したとは言えない。が、かの男に対し叫んだ言葉は偽りではないと証明するために、自分の生はあるのだとフレンは思っている。即ち、真にあるべき帝国騎士として、新皇帝ヨーデルと共に歩んでゆくこと。かつてアレクセイが望んだ理想を、実現すること――貴族、平民、帝国市民、ギルド―そうした垣根を取り払い、同等の権利が成り立つ社会を実現することこそ、己の道なのだ。
そこに、実際名を記したようなものはなにもない。象徴的な何かがあるわけでもない。あるのは、視界に広がる海原と潮の中に幽かな春の香を含んだゆるやかな風と、文字通り遠く広がる蒼天しか存在してはいない。
だからこそ、この場そのものがアレクセイの墓標なのだ。アレクセイが野望を抱き、失意と絶望と共に死んでいったこの場所が。
「団長がいらしたからこそ、改革を中途であっても成したからこそ僕がいます」そうでなければ、下町出身の自分の芽が出ることなどなかった。そう、アレクセイと言葉を交わした瞬間にも、強く感じていたことだ。それがこうして今は騎士団のトップに立っている。夢のような、けれど、その責務の重さをひしひしと感じるこの瞬間は現実だ。
「その僕がこうして騎士団の頂点に立ち、多くの騎士と共に帝都を、街を守ることができるのは、団長がいらしたからです。その事実は変える事はできません。ですから、僕は団長に感謝します。団長がおられたからこそ、帝国の改革は結果的になしえたんです」
レイヴンは、口数が多いこの男にしては珍しく、ただ黙っていた。帝国の改革、即ち騎士団、評議会だけではなく法の遵守を監督する第三機関の設置及び現行法の改正。アレクセイは、あの悪事の水面下でそうした細々とした仕事をやってのけていた。いって見れば当時のフレン隊などは、アレクセイがいたからこそ可能だった編成だったと言っても過言ではないことも、あとからわかった。
レイヴンは、やはり何も言わない。フレンはその顔を改めて見ようとは思わなかった。
「アレクセイの名は悪逆非道の大悪人として帝国の歴史に記されます。けれど、同時に、改革の礎を築いた偉大なる一人の革命者なのです。変わります。帝国も、帝都も、世界も、きっと、閣下が望んだ方向に。ゆっくりと、けれど、確実に」
腰に差したその重さは、まだあまり馴染んではいない。けれど、この剣を手にした瞬間の事を思えば、これからも自らの信じた道を歩める。これは、簒奪者の剣ではなく、革命家の剣なのだ。
「けれど、今の話は秘密です。騎士団長の僕がこんなことを言ったと知られたら、皇帝陛下に怒られてしまいますから」
「ははっ、そりゃ違いない。旧派を焚き付ける材料にもなっちゃうしねぇ…」
「はい」
こうして、アレクセイのことを語れる人間は少ない。だからこそ、アレクセイが死に季節が一つ巡った今日、船を出す部下を一人だけ連れた「散歩」でそこに先客がいて、その先客は手向ける花も持たずおどけた調子でいたことも、偶然だとは思わない。
「レイヴンさん」さぁてと、なんてわざとらしく肩を揉み解しながら、そろそろ退場の準備をしだした男に声をかける。「ん?」
「これを」留め金を外し、鞘ごと差し出すと、今度こそ馬鹿みたいにぽかんとして、レイヴンは差し出された剣とフレンの顔を交互に見詰め、陸に打ち上げられた魚みたいにぱくぱくと口を動かした。
「秘密ですから、持っていて下さい」
一瞬で意味を悟ったのだろう、見事な渋面を作り、レイヴンは勘弁して下さいよ、といわんばかりに両手のひらを向けて、首をぷるぷると横に振る。
「いやぁよ、そんな物騒で重たそうなモン、おっさんとてもじゃないけど持ち歩けないしー」
「じゃあ、鋳潰して短刀にします。そうすれば重たくないですし、任務の邪魔にもならないですよね」
「…フレンちゃん、冗談だってわかって言ってるでしょ」
「残った分は全部鏃にして貰いましょう。それならきっと」
「だーっ、もうっ、青年といいフレンちゃんといい、なんだってもううだつのあがらないおっさんいじめて何が楽しいの?はいはいわかりましたよ、上司の始末は部下がやるもんですね!」
「始末じゃあ、ないんですけど…」
「あーもういいから、もういいから、おっさん疲れちゃったから、これ以上なーんにも言わないで、お願い、一生のお願い」言いながらもレイヴンはしっかりと剣を受け取り「うっ、ホント重い…」小さな後悔の溜息と共に、次の瞬間には困ったような顔でへらりと笑う。本当に、嬉しそうだ。何の衒いなくフレンはそう思った。まったく本心の見えない胡散臭さが服を着て歩いているような男だけれども、性根はひどく実直で真摯なのだ。
ややもてあまし気味の剣を、それでも苦心して腰に収めて、格好がついたとばかりに何度か腰のあたりを叩くさまが、どこか子供染みていておかしくて、笑いを誘われてしまう。
「……似合ってますよ、レイヴン隊長」
「それは冗談」
「冗談じゃ、ないですよ。僕には似合ってないって散々言われましたから」冗談ではなかった。不恰好ではあるけれど、レイヴンの元に収まったそれは、なぜだかとてもしっくりして、安定している。そうでなくとも、レイヴンが言った通り騎士団長フレンが持つには些か曰くがつきすぎている剣なのだ――簒奪者アレクセイの得物というものは。
「羨ましいです」
ぽつりと漏らした言葉に、更に重なる言い訳と泣き言。空気は軽い。一年という月日は短く、長かった。あの時に感じていた絶望は、今は小さな失望のようにすら思える。けれど、確かにあの日、自分もまた変わったのだ。アレクセイという存在によって、現実を夢想する盲目の騎士ではなく、失意と義憤を知るもう一回り成長した、一人の人間として。
軽くなってしまった腰の事は、考えまい。自分はアレクセイとは違うのだ。同じであってはいけない。だから、思い出は思い出でよい。
「フレンちゃんはそういう風に思ってたんだね、大将のこと」
「言ったことは、なかったと思います」ユーリにすら、話してはいない。打ち明けたのは、エステリーゼだけだ。彼女もまた、アレクセイにあれだけのことをされながらも、あのひどく優しい性根からかの人を憎み切れない、とフレンに打ち明けたのだ。
「そっか。でもね、ありがとう。一人でも、大将のことそういう風に見てくれて。それが、騎士団長フレンで。本当に有難う」
「いいえ」「そんなことはないです」「他にも」なんとなく出てきた言葉は、フレンの脳裏からふわりと消えてしまった。あまりにも寂しくて、あまりにも疲れていて、けれどもその時レイヴンが浮かべていた笑顔は、とびきりのそれだった。