他には、なにも覚えていない。けれどもとても鮮明に、君を殺したことを覚えている。
どうして、と君は問わなかった。
ただ、ゆっくりと微笑んで、そうだったんだ、と君の唇が音にならない言葉をつむいでゆく。
君はわらっていた。
君は僕に手をのばして、ほほえんだ。
そのときに、とても胸が痛くて、思わずおおきく息を吐き出した。
重たい鼓動が、止まらなかった。
身体中に汗をかいたかのような不快感を覚えた。
同時に、君からこぼれてゆくぬくもりが少しずつ、すこしずつ、消えていった。
僕は君に手を伸ばしたかったけれど、伸ばせなかった――伸ばせるわけがなかった。
君を殺したのは、僕だから。
君の命を奪ったのは、僕だから。
君のぬくもりが消えた瞬間のことを、よく、覚えている。
錆びたにおい、内部ユニットを確実に抉ってゆくことを伝える感触、破れた人工皮膚からこぼれる赤黒い命のもと。こぼれてゆく、こぼれてゆく、どんどんと、際限なく広がる赤、赤、赤、赤。赤い色。
じわりと広がる鈍い赤い色を代償にして、世界から色が、音が、温度が、全部が消えてしまって、そうして、なにもかもが真っ黒に塗りたくられた瞬間だった。
君がいなくなってしまった。
手が震えて、握っていた軍刀が音を立てて地面に転がる。ここがどこなのかすら、僕にはわからなくなっていた。
事務的に言葉を告げるSSを剥ぎ取り、力任せに脚で踏みつけると、小さな機械は簡単に砕け散った。
なんだ、こんなにあっけないことだったのか、とだけ思った。
ついでにゴーグルを剥ぎ取り、投げ棄てた。
何の戒めもなくなった視界は、けれど色褪せたどころかすべてが鈍色に見える。空も、雲も、風も、あたりの植物も、時折現れる動物も、すべてが、鈍色だ。
これが、僕の世界の色なのだろう。
なにもかもが痛い。しくしくと沁みるような痛み。いっそこの身体に埋め込まれたブラックボックスも破壊してしまいたかった。もう、いまさら、こんな命なんて、必要はないのに。
九号以外のM部隊をどうやって殺したのかは覚えてはいない。覚えてはいないというよりも、抜け落ちている、というのが正しいかもしれない。
殺した気がするが、論理ウィルスで自滅していた気もした。けれども、それらのことは、今の僕には必要のない記憶だから、忘れているのだろう。任務を完遂はしたのだ、もう、あとのことなどどうでもいい。
レジスタンス脱走兵の姿もなかった。なくてよかった。なんとなく、彼らを殺すことは避けたかった。そういうと、君は笑うのだろうか。それとも、違う言葉をかけてくれるのだろうか。君の表情が、うまく思い出せない。
僕に必要なのは君の記憶だけだ。痛みをやわらげてくれるのも、一瞬だけ光のように世界がきらめくのも、君の記憶があるから。そうでなければ、僕はこの鈍色の世界に取り残されてひとりぼっちだ。
君の柔らかい声や、君のあたたかい体温や、すぐ傍に、とても無防備にあった気配。おそるおそる僕の傷を気にして、包帯を巻いてくれたときの弾んだ声と控えめな官職。君を構成しているひとつひとつが、僕の中でしっかりと構成されていて、それは決して消えることも褪せることもない。
けれども、どうしてだろうか、その表情だけは、思い出せなかった。君はいつでも、隣で笑顔でいてくれたような気がするのに。
バンカーに戻る気はなかった。あの場所は好きでも嫌いでもなくて、特に思い入れもない場所だから、どうでもよかった。司令部に報告すら入れずに未帰還の機体は何れ追っ手を差し向けられて殺される――それは僕自身がE型・処刑タイプの機体だからよく知っていた。けれどもそれならそれでいい。僕に死ぬ理由もないけれど、生きる理由も特にないのだから。
「行こうか、九号」
僕は君に声をかける。君は、応えない。
応えるわけがないことは知っていたけれども僕は構わずに君の身体を抱えた――冷たくて、ただの鉄の塊でしかなくなってしまった君を、僕は背負う。ぬくもりのない身体は残酷な現実を僕につきつけてくるけれど、その現実から僕は目を背けて、無理やりに前を向いた。
「君は言っていたよね、色々なところにいきたいって。だから、一緒に行こう。どこまでも。どこまでへでも」
君は決して応えてはくれない。静かに世界は死んでゆく。
僕は、君の血と壊れた部品の臭いをまとって、君の重さを背中に感じながら足を踏み出していた。
君と共に歩く世界は、僕には鈍色にしか見えないけれども、見えないなりに不思議ときれいだと思った。色はなくとも、音や、においや、触れる草の感触と、ときどき目を焼く強い光。たくさんの感覚を同時に刺激されるこれらは、君にはどういうふうに見えて、感じていたんだろう、そんなことを考えた。
時々雨が降った。この地域は少しばかり雨が多い気候なのだと、些細なデータをぼんやりと思い出す。どこで覚えたものなのかはわからない。雨に濡れて歩いた。地面がぬかるみ、植物は行く手を阻むように頭を下げて歩きにくい。木々が生い茂る森の中は湿気が人工皮膚に纏わりついてこんな場所で戦闘はしたくないなと思った。ぬかるみに足跡は一人分だ。けれど、二人分の体重を背負って、僕は歩いていた。
雨が降るよりも少ない頻度で機械生命体たちと出会うことがあったが、敵対意識が低いのか積極的に攻撃してくる個体は少なかった。不思議だったけれども、それならそれで構わない。もはや逃亡兵と変わらないような僕に、機械生命体を倒す使命はもうないのだ。ヨルハ機体は機械生命体を殺すために作られたけれど、僕の中から使命、任務、命令、そうした言葉も意味もすっかりなくなってしまった。どうでも、よくなっていた。世界は死んでしまったのだから。
あれだけ苦しんだE型の任務のことすらも、もう過去の記憶の中にぼんやりと存在しているだけで、意味はない。意味はない、この、死にゆく壊れた世界と同様に。
その時も、雨が降っていた。静かにいつまでも重たく身体を濡らす少し冷たい雨。これがつめたい、という感覚なんだなといまさらの様に思う。
君の右腕が、いつの間にかなくなっていた。僕は気づかなかった。錆びついた金属の臭いがすることにはじめに気がついて、背負っている君を確かめると、そういえば君の重さが少しだけ軽くなっていたな、ということを唐突に思い出した。
僕に君のような修復する能力も知識もない。
そう考えたとたん、ぞくりと腹の底からどうにもならない恐怖が僕を襲う。君がなくなってしまう。君が君でなくなってしまう。失ってしまう、君を。それは、とてもこわいことだった。
君がいるからこの世界は存在する。僕にとっては、そうなのだ。君がいなければほんとうに世界は死んでしまって僕はいなくなるだろう。それが死ぬことなのか、それ以外の意味なのかはわからなかったけれども、漠然と僕はいなくなってしまうのだという恐怖に襲われた。君がいるから僕は今ここにいる。ぐるぐると廻るどうしようもない思考に囚われて恐怖が膨れ上がる。恐怖なんてもの、今まで感じたことはなかったのに。 どうしていいのかわからない。どうにもならない。君がなくなってしまう、それは、とてもこわいことだ。だから、僕は君の腕を捜すことにした。重たさとぬかるみと冷たい雨をまといながら、僕は森の中をあてもなく歩いていた。
けれど、どれだけ歩いても歩いても、君の腕が見つからなかった。冷たい雨は、降り続いた。森の中の音は、僕が歩く音と雨の音だけだった。ほかにはなにもない。機械生命体すらいない、だから、僕には、ここがほんとうに地上なのかどうかもだんだんわからなくなっていた。
やがて見つけたのは、ずいぶんと昔に壊れたアンドロイドの義体だった。部品はぼろぼろで、金属部分は腐食していて、元の形の面影すらない箇所も多い。けれども、腕の人口筋肉は少しこわれかけていたけれど形をまだ保っていた。これなら、君に腕を与えることができる、とよくわからない思考のままに僕は考えていた。君の腕がみつかった、そのことだけが、僕の頭の中を支配していた。木々の間から少しだけ、光が見えた気がした。
壊れた義体から腕をもぎ取ると、君の喪われた箇所にあてがう。けれども、そのまま接着することはない。あたりまえだ、たぶん、型式も年代も違うから。だから壊れた義体からコードのような、部品と部品をつなぎ合わせられるようなものがないかを探した。壊れた義体はバラバラになったけれども、君の腕を戻すための部品は見つかった。見つかった部品で腕をつなぎ合わせると、少しだけ君が戻ってくれたような感じがしてうれしかったし、ほっとした。よかった、九号が戻ってくれた。君は何もいわなくとも、君と少しだけ過ごした時間があるから、僕は少しだけ君の事を知っている。前は何も知らなかったけれど、こうして君と長い時間を歩いてきて、少しずつ、少しずつ君の記憶やデータが僕の中に伝わっている気がしていた。
世界はあいかわらず鈍色だけれども、僕は歩き続けることにした。
森はどこまでも続いていた。僕はいったいいつこの森に入り込んだのかも、どれくらいの時間がたったのかもよくわからない。あれだけ時間を――主に処刑開始時刻についての遅延だが――しつこく告げていたSSもなければもう時間を知る手段は僕にはないのだ。
雨はやんでいた。けれども、地面も下生えの植物もしっとりとぬれていて相変わらずぬかるんでいる。ブーツはとっくに濡れそぼって重たくなっていて、動物の声はいっさいしない――それはたぶん少し、否、だいぶおかしな状況なのだと僕の中に残っているまっとうな部分が判断した。僕の中にそんなものがまだ残っていたのかなんだかおかしい。僕はもう、たぶん、狂っているから。論理ウィルスに汚染はされてはいないけれど、僕は僕自身がおかしくなっている自覚があった。不思議な感覚だ。けれども僕の内部も外部も決してエラーを弾き出すことはない。狂っていてもそれはエラーではないなんてそれこそおかしな事態なのに、僕はこうして歩いている。君の重さを背負ったまま。君の重さを感じていれば、君はここにいるんだと思えた。
君は、何度か、部分的に壊れてしまった。その都度僕は死んだアンドロイドを探した。この森の中にはそれなりの、修理のようなものをするのに十分な数の遺体が存在していた。ここはアンドロイドが死ぬための場所なのか、機械生命体が死体をわざとおいているのか、理由はわからない。けれども、ここはきっとそういう場所なのだろう、死に向かう、そういうような。死ぬということをだんだんと、漠然と僕は意識していた。死ぬ、つまりアンドロイドであれば壊れることで、僕たちヨルハ機体であればブラックボックスの停止を意味している。静かで、雨が時々降り続いて、機械生命体もいない、戦争もない森の奥の奥で、僕は死に向かっているんだ。九号とともに死に向かうというのはどこか甘美な響きを含んでいて、僕は、少し笑っていたかもしれない。生きるつもりもないし死ぬつもりもなかったけれど、こんな場所にいつのまにか迷い込んでいた。最期の場所がここで、僕は君の重さを感じながら死ぬなのだとしたら、たぶんしあわせなのだろう。
突然、静かな森が途切れた。
変わりに現れたのは、沢山の建物だ。空までも向かうような――空を貫こうとするような、高い高い建物。今までは豊富に生えていた植物は、ある一定のラインを越えてしまうと逆にまったく存在しなくなっていた。重たい湿り気も冷たい雨もなくなり、そのかわりなのか空からは白いものがゆっくりと、次々と、舞い降りていた。
ああ、これは雪だ。雑に記憶していたデータから引き上げた単語は、地上でも寒冷地で降ることのある氷の結晶を示している。
今が、雪が舞う季節なのかはわからない、そもそもこの場所がどこなのかもわからない、けれども僕は今、雪を見ていた。
九号が見たらきっと、もっと、驚いて喜ぶだろうに。背負った九号は動くことはなく、言葉をつむぐこともない。重さだけが君がここにいるという証明だった。
直接感じる温度は幾分か下がっているのかもしれない、風が吹くと少し寒さを感じた――もっとも、行動に支障があるわけではないけれど、僕たちヨルハ機体は特別寒冷地で任務につくということは想定されていないので行動にそのうち影響が出てくるかもしれなかったけれど、だからといって僕にどうにかする手段も能力もない。だから、どうにもできない。僕は君の重さを背負って、ただ歩くことしかできない。
君の重さを背中に感じながら、空を見上げた。
どんよりと空は曇っていて、白いつめたいものがふわりふわりと落ちてくる。皮膚に触れると、体温で融解し、水滴となってしまうはかない氷の結晶が、僕と君にどんどん降り積もってゆく。僕の上に、そして君の上に。君の上に積もった雪を払おうとおもったけれど、君はきっと雪が積もったら喜ぶような気がして、なんとなくそのままにしておいた。雪は、降り積もる、僕の上に、君の上に。静かに、音もなく。
僕はまた、歩き出した。あてもなく、ただ歩いていた。
雪の降る何も存在しない不自然な廃墟群――そう呼ぶしかないようなこの場所には、いたるところに白い塊が存在していた。吹き溜まりにたまりくるくると舞い上がる粉、壁にこびりつくようにかたまっているもの、吹きさらしになって削り取られたようなもの、いつでもこの場所に存在している風が作り出した不可思議な景色は、今までの植物の楽園のような森とは違って、ほんとうに色彩が存在しなかった――鈍色すらない、白と灰と黒の世界。廃墟群の中には何かが存在していたかもしれないと思わせるような痕跡がたまにあったけれど、それが何を意味するのか、どういうものなのかは、僕の知識やインプットしてきたデータでは理解できなかった。小さくコンクリートのようなもので区切られた区画、ばらばらに砕け散っている木材や金属製のなにか。かつては、かたちがあったであろうたくさんの残骸はそこかしこに在って、それはすべて風雪に晒されて元の形状を想像することは、とてもではないけれど無理だった。
こんな場所でも、君は目を輝かせるのだろうか。まるで死んだ都市のような、無機物と冷たい風だけが存在している空虚な場所だけど。
「さむい」
ふと、何週間ぶりか、あるいは何ヶ月ぶりかはわからない言葉が口からこぼれおちた。さむい。そんなことを感じたことは、起動してから一度もなかったはずなのに、僕は今、思わず言葉にしなければならないほどさむいと感じていた。体感温度をチェックすれば、確かに周囲の温度は氷点下近く、そこに風が途切れることなくふきつけていれば標準装備のヨルハ機体なら寒いと感じるだろう。もっとも、僕はあまりそうした寒暖を感じたためしはなかったのに。
「九号、ごめんね、君はもっと寒いよね」
背負った九号に声をかけて、僕はまた歩き出した。九号を休ませなければ。動いていない九号は、僕よりももっと寒いに違いないのだから。
ようやく見つけたがらんどうの大きな建物の中で、九号を横たえてからその隣に腰掛ける。背後には埃が積もったガラスのようなもので作られた入れもののようなものがあり、中には同一素材に思われるプレートが斜めに横たわっていて、そのいたるところが欠けたり割れたりしている。干からびた何かがたくさん落ちていたが、そのほとんどは砕け散っていて原型をとどめてはいない。
埃っぽくて寒いけれど、この場所は少しだけ静かだ。これで、暖かいのみものでもあればいいのに。そうすれば九号は寒くないといってくれるだろうに。
「九号、寒くはない?僕は大丈夫だよ、安心して」
安心していい、ここには、機械生命体も、アンドロイドも、敵も味方も誰もいない。静かなさびしい場所だから。それなら君が何かを心配する必要はないし、何かあったとしても僕がついているから大丈夫。
「あ、そうか、雪が積もりっぱなしで濡れて寒いよね。僕の上着と交換しよう、大丈夫、僕は寒くはないから」
君のすっかり白い頬を撫でながらささやいて、しっとりと濡れてしまった上着を脱がせて、僕のものと交換をする。それから、くたりと横たわっている君の身体をそっと抱きしめた。君は相変わらず冷たい。
「すっかり冷えてしまったけど、大丈夫、僕がこうしているから。君を、あたためるから」
つるつると出てくる言葉はうそ偽りのない本心で、僕は何も間違えたことなどはいっていないのだ。君の身体が冷たいのならば、僕の熱をあげればいい。こうして抱きしめて、そして眠ればきっと。
君を抱きしめて、息をつくと、少しだけ眠くなってきた。そういえば、一度も休眠モードになっていなかった。いくら戦闘がなかったとはいえ、ヨルハ機体の標準連続稼働時間はとうに過ぎている気がするのに、なぜだろう。けれどその疑問について僕は深く考えることはなく、ただ、君の肌と髪の感触を感じてうっとりと目を細めてから、唇を落とした。とても甘くてやさしい香りがした。
静かに雪が、降り積もっていた。
少しばかり寒いと思ったけれども、君がそばにいるから僕は平気だった。
世界は相変わらず鈍色で、君と眺める景色は灰色でも、僕はほかになにもいらなかった。
他にはなにも、いらなかった。僕は君がいれば、それだけでしあわせだった。
「こちらヨルハ機体2B。ターゲットを確認。ただ……」
「……対象のブラックボックス反応は既に停止している。それから……」
それを、どう表現してよいのか2Bにはわからなかった。寄り添うように壊れかけたガラスケースに凭れている二体のヨルハ機体と、おそらくはもともとヨルハ機体であったようなモノ。腕部や脚部の一部は他のアンドロイドの部品で補われていて頭部以外は殆どが別の義体といっていいほどちぐはぐだ。
けれども寄り添う二体の手は触れ合うように置かれており、ターゲットであった元・2Eの表情はうっすら微笑んでいるようにも思える。まるで幸せな夢の中、事切れたかのように――
「2Bさーん、本当にどうしちゃったんですか?」
「なんでもない。対象の傍に元ヨルハ機体と思われるアンドロイドの死体があった」
「え?最近ヨルハ機体で最近ロストした機体なんて……あ、そっかそっか〜。調べたら、識別番号が旧型なんですね、了解です。確かにブラックボックスの存在は感知できました。M002部隊所属、2Dと9H、そういえばロストの報告がなかった機体ですね」
「そう」
6Oのお喋りはなおも続いていたが、2Bは返す言葉どころか彼女の声すら耳には入っていなかった。どうしてなのだろう、こんなにもちぐはぐで不気味にさえ思える光景なのに、二人がとても安らいでいるように見えるのは。
わからない。わからなかったし、感情を禁止されているヨルハ部隊に余計な詮索などは必要はなかった。そう、なによりもE型として、そんなものは必要はなかったのだ。