先にその存在に気づいたのは、042だった。
「報告:友好的な機械生命体の接近を確認。目的不明」
「友好的…?ここにそんな機械生命体は……」
9Sが記憶照合を終える前に、脇腹に大きな傷のあるイノシシが、布をかぶった機械生命体を乗せてこちらに向かってきた。そこで照合が終了する。以前動物たちのことで困っていたところを助けた機械生命体だ。
「マタ、アソビニキテクレタンダネ!」
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
否定しようとする9Sにはお構いなしに、機械生命体は幼い子供がはしゃぐようにイノシシから飛び降りて、手を伸ばしてくる。
「キョウハテンキガイイカラ、コノコトサンポヲシテタンダ。ソウシタラ、コノコガキュウニハシリダシテ。ゼンゼンイウコトヲキイテクレナイカラソノママハシッテキタンダケド、キミガキテクレタノガワカッタノカナ」
手を取らざるを得ないなと判断した9Sが無事な右手で機械生命体の手を握ると、イノシシが鼻を鳴らして地面を蹴る。まるで、無視されているのが腹立たしいと主張しているようだ。
「え、ええと……?」
「アイサツ!アイサツヲシタガッテル」
「挨拶…て、いわれても」
同じようにすればよいのだろうか?動物に改めて挨拶した経験などはないから、とりあえずその頭に触れる。硬い毛とぶあつい皮に触れると、イノシシがそれでよいというように頭を左右に動かした。
「ソウダ、ボクノイエニオイデヨ。キミハケガシテルミタイダシ、ミンナモアイタガッテルカラ」
「そうはいっても……どうしよう、ポッド」
「回答:この機械生命体の住処は森林地帯でも比較的安全な場所と推測される。よって、休息を取るという目的に適う。9Sの決定に我々は従う」
要するに、丸投げじゃないか。確かに彼らの住処は安全な場所にある。キャンプに戻ったところで治療行為が出来ない以上、どちらに向かっても確かに問題はない。そして、機械生命体はもうすっかり9Sが自分に会いに来たのだと思い込んでいるし、相棒のイノシシもそうなのだろう。断る理由がないというよりも、断れなかった。
機械生命体は自分の住処に9Sを連れてきて、ひとしきり一方的に近況を報告すると、「ジャアユックリヤスンデ。ハヤク、ケガナオシテネ!」そう言って9Sの前に様々な部品と資材を置いて、自らは動物たちの餌を作る作業に没頭している。不思議になことに、その様々な部品や資材の中にはヨルハ機体に適合する消耗品なども含まれていた。これならば、当初の予定よりもだいぶ修復が可能だ。おそらくは、任務途中で死亡したアンドロイドから回収したものなのだろう。ポッドたちが義体の修復をしてゆくさまを眺めながら、もうこんなことも必要ないのにな、と9Sは思う。
ヨルハ計画の最終段階で、不要になったヨルハ部隊は残らず全滅させられるはずだ。ポッドたちは先ほどはその選択をしなかった。だが、計画は絶対だ。いずれ、どういう形であろうと自分に訪れるであろう死は、遠くはない。
けれど2Bは9Sを生かした。初めて得た自由で、彼女は自分の意志で、9Sに生きて欲しいと願った。追撃部隊との圧倒的な戦力差から、2Bは自分を囮に9Sを逃がす決断をした。あの時は2Bに何らかの考えがあって、いずれ合流するものだとばかり思っていて、だからその判断にも疑問を持たずに従った。もし知っていれば、9Sは意地でも戦線を離れなかっただろう。そして、きっと、共に死んでいた。
死ぬつもりだったA2は、最期に自我データを犠牲にしてまで9Sのウィルスを取り除き、機械生命体たちの目的を阻止して死んでいった。聞こえてきたあの声はA2のものだった。かなしくて、満足げで、やさしい声。見ないようにしていた、聞かないようにしていたA2の声と表情を、今になって鮮明に思い出す。2Bと同じ顔で、少しだけ違って、けれどやっぱりよく似た顔。
ふたりに生かされた。
否、ふたりだけではない。司令官は最期にお前たちは生き残る義務があると告げた。2Bの死を目撃した直後に行動不能に陥った9Sが目覚めたとき、アネモネには無事でよかったと言われた。何度も治療して、心配してくれたデボルとポポルは、9Sを塔に進ませるために自ら犠牲になった。
皆は、9Sに生きろといった。死ぬな、といった。自分は、皆に生かされたいのちだ。何度も繰り返し出していた結論の意味を考えようとした。
だが、先に感情が溢れる。
9S自身に生きる意味も目的もない、なのに。押し付けて。
ぜんぶ、おしつけて、皆死んでしまった。
残されたほうの気持ちなんか知らずに。迷惑だって、悲しいだけで、こんな思いをするくらいなら、死んだほうがマシなのに、まるで呪いのように口を揃えて生きろという。
死ぬなという。どうして。
これだけ思考が乱れて、感情が揺れているのに、153も042も何も告げず、何も答えない。
どうして僕なんだ。どうして。どうして。
「ナカナイデ」
餌を作っていたはずの機械生命体の声がした。触れてくるのは温度のない機械の腕ではなく、命のある温度。気がつくと9Sはまた涙を流していて、それを心配そうに覗き込んでくる機械生命体と、その相棒である傷跡のあるイノシシ。
機械生命体が泣くという行為の意味を理解しているとは思わなかった。まして、こんなふうに。
「ナカナイデ」
機械生命体が言葉を繰り返す。表情のないその顔が、不安そうに見える。
「どうして僕が……」
静かな、搾り出すような9Sの声に応えるかのように、静かに、背中に、鹿が寄り添うように座ってきた。頭部の大きな角がごつごつと背中に当たる。
「どうして」
イノシシが、鼻先をいっそう押し付けてくる。ためらいがちに、機械生命体が手を伸ばして、9Sの右手を握った。
「ナカナイデ」
つめたくて、ぎこちなくて、感じないはずの温度をそこに感じて、余計に涙がこぼれた。
「どうして」
「ミンナ、シンパイシテイルヨ。ダカラ、ナカナイデ」
記憶の中の2Bの声と、おぼろげなA2の声と、オペレーター21Оの声と、司令官の声と、アネモネの声と、デボルとポポルの声と、記憶の中のすべてのやさしい音と、独特の機械音が重なる。
相手は機械生命体なのに。君は、機械生命体なのに。
「僕は死にたかったのに」
すべてを知って、すべてに絶望して。もう壊すしかなくて、すべてを壊そうとしか思えなくなって。だから死にたかったのに。
「ナカナイデ」
「僕は死にたかったのに。死のうとおもっていたのに」
死を願い続けていた。死を望んでいた。死を、覚悟した。それでも。
死ぬのは、こわかった。孤独であることよりも、ずっと。
つい先ほどまではポッドたちに処分されるならそれで構わないと思っていた、それはうそではなかった。何度も2Eに殺されて、その都度記憶を消去されていて、殺されるのも構わないと思っているのも事実だ。
けれど、同時にどこまでも怖かった。生存本能、なのだろうか。死を恐怖しない兵士は強いが、生き残れない。ヨルハ機体の中にも稀に死を恐れる個性を持つものがいた。それは、果てのない戦争を繰り返す中でより効率的な兵士を生み出す上での試験的な存在だったのだろう。そしてヨルハ機体9Sもまた試験的に――おそらく設計段階から次世代モデルへの転換が検討されていたからだろうが、生き残るための設計が随所になされていた。死を恐れる、という、ある意味で前線部隊に立つ兵士としては致命的な欠点を、実験的に、深い階層に埋め込むことで表立たないように、だが決して背かないように植え付けられて。
他のヨルハ機体と比べ、単独行動をとっても帰還率が異様に高いのも、死を恐怖するという思考が根幹にあるからこそ慎重で最善の行動を取るからだ。事実、2Eに処分された場合以外での9Sが死亡した記録は、存在しない。
「死ぬのがこわかった」
ようやく、9Sは気がついたのだ。何度殺されても、何度死んでも決して辿りつけなかった己の真実が、そこにあった。
「死ぬのが、こわかったんだ」
「ウン、シヌノハ、コワイヨ」
機械生命体は当たり前のように9Sに同意する。まるでそんなこと、特別なことなんかじゃないんだ、と言うように。
「死にたくない」
「シンジャ、ダメダヨ。キミマデイナクナッタラ、ボクハカナシイ」
死んだら、悲しい。そうだ、悲しかったんだ。悲しくて、憎むことで憎しみ以外のものを忘れたくて。けれど、正常に戻った思考と感情は誤魔化せなかった。悲しかった。
「キミガヒトリデキタトキニ、キミノトモダチガイナクナッタンダッテワカッテ、ボクハカナシカッタンダ。キミマデイナクナッタラ、モットカナシクナルヨ、ダカラ、イナクナラナイデ。シナナイデ」
機械生命体は、2Bのことを言っているのだろう。思わず見つめた機械生命体は、悲しげにみえる。少なくとも「彼」は2Bのことを友人のように思っていて、だからその存在が失われたことを悼んでいる。
「彼」のコアが自分たちヨルハ機体のブラックボックスと同一のものだから、精神構造が一緒だから、そういうわけではなく、「彼」は「彼」の意思で悲しいと言っているのだ。機械生命体にも意思があり、感情はある。多くの経験から、認めたくはなかったが、9Sはそう思っていた。
ならば自分はどうだろう。
いうまでもなかった。同じように、それ以上に、悲しかった。2Bが死んでしまったことが、悲しかった。帰るべき場所であるバンカーを、仲間たちを失ったことが悲しかった。オペレーター21Oを殺さなければならなかったことが、悲しかった。デボルとポポルがいなくなったことが、悲しかった。パスカルが村や子供たちの記憶を失ってしまったことが、悲しかった。
悲しくて、あまりにも悲しくて感情に押しつぶされそうで、死んでしまえば楽になると思っていた。
でも、死ぬのは怖くて、死ぬこともできなくて。何も出来なくて。
それどころかA2に救われて、生きている。無様な、生きている意味もなにもない自分。それなのに。
「悲しかったんだ。死にたくなかったんだ。怖かったんだ」
「キミガイキテイテ、マタキテクレテ、ボクタチハ、ウレシイヨ」
機械生命体に同意するように、シカが9Sの手を舐める。生き物の温度が、9Sの飽和した感情をゆさぶる。
「こんなに悲しいのに、生きていてよかったって、思うんだ」
矛盾していた。なにもかも、矛盾していた。自分の存在も、感情も、何が正しくて何が間違っているのかも、なにがよくてなにがわるいのかも、わからない。わからないから、ひたすらに悲しいという感情だけが明確で。抑制すら出来ないほどに飽和した悲しさが涙となって次々と零れ落ちる。
「もうみんないなくなってしまって、僕はひとりなのに、生きていて、よかったって」
「ナカナイデ。キミガナクト、ボクモカナシクナルヨ」
「そんなこと、いわれても、涙が、勝手に」
「キミノタメニ、ドウシテイイカ、ワカラナインダ。ナクノヲヤメテホシイノニ、ソノタメニドウシタライイカ、ボクハワカラナインダ」
気のせいだろうか、機械生命体は小刻みに振動している。触れているままの「彼」の手から異常な温度などは感じられず、頻繁に目をちかちかとさせている以外の異常行動も見られない。
「……ポッド」
「温度センサー及びスキャニングデータにに異常なし。敵性反応なし。微弱な振動は、おそらく該当機械生命体自身の心理状態からくるもの」
「憶測:自らが友人と認識している9Sを慰める方法がわからず、涙を止めることができないことに、憤りを感じ、悲しいという感情が増幅されている」
「ナカナイデ。ナカナイデ。ナカナイデ。ナカナイデ」
機械生命体は不器用に言葉を繰り返す。その言葉のお陰で余計に9Sの涙が止まらなくなるのに、それしか言葉を知らないとばかりに「彼」はいつまでも繰り返す。ナカナイデ。ナカナイデ。自分の涙を止めたかった。けれど、処理しきれなくなった感情はどうにもならなくて、うまく何かを言ってやることもできなくて、9Sは涙を流し続けていた。