空が少しばかり薄暗くなってきたころだろうか。
メンテナンスなんて何年もしていなかったから必要ないとはっきり言ったにも関わらず、勝手についてくるポッド042が繰り返し主張してくるものだから、そのあまりのしつこさに折れた結果、A2はこのレジスタンスキャンプを訪れた。
ビルの廃墟の中に隠れるようにして作られた仮の住居空間のような、雨風を凌げればそれでいいような、なんとも中途半端な佇まいの中に足を踏み入れた瞬間に覚えた感情は、とても――とても久しぶりの、懐かしいものだった。A2にとって、ここは、初めて訪れる場所なのにも関わらず。
「アネモネ」
「お前は…二号…?生きて、いたのか……」
お互いの再会は、その別れと離れていた年月を考えれば、あっけないものだった。あっけなさすぎて、実感がわかないほどに。お互いにすっかり変わってしまっていたけれど、その顔を見れば思い出す。思い出したくないことも、そうではないことも、あらゆることを。
久しぶりの仲間との再会だというのに、吹いてくる風がどうも肌寒かった。
少し寒いな。ぽつりとA2がつぶやくと、アネモネは何を思いついたのか、背後に置いてあった大きな壷を一瞥した。
「それなら、アルコールはどうだ」
「……アルコール?そんなもの、摂取したことはない。というか、私は」
「人類に倣えば、アルコールは身体を温める効果があるという。まあ、私たちアンドロイドには関係ない話だが」
「必要ない」
「お前が特に食事を嗜まなかったのは知っている。ただ、私たちも少しずつ変わった。変わってきた。戦い方も、生き方も」
「機械生命体との共存も、か」
「そうだな」
A2のいささか棘のある言い方も、アネモネはやわらかく微笑んでいなす。これが、レジスタンスリーダーとして生きてきた彼女の「顔」なのか。
ひとり戦い続けてきたA2とは、なにもかも違う方法で、戦い続けてきた彼女の顔に何も言えなくなり、会話の最中手渡されたいびつなブリキのカップに半ばほど満たされている、赤く色づいた透明な液体を口に含む。
口に含んだ瞬間に味覚が刺激される。甘い。
甘かった。
これは、とてつもなく、甘い、ということだけはわかった。
「……なんだ、これは!」
「だから、アルコールだよ。正しくは、木苺を原料にした酒だ。隊の連中が趣味で作っていたんだが、今年は9Sと2Bのおかげで作りすぎてしまったんだ」
「9S、2B」
「彼らは結構ここでは自由にやっていたよ。ふたりがドラム缶を抱えて戻ってきたときは驚いたんだが、その中身が全部木苺だったと知って更に驚いた。珍しい植物でもないが、果実酒にするほど収穫するには毎年骨を折っていたからな」
「そういうことじゃない。なんだこれは」
アネモネの説明を聞きながら飲み干した液体は、甘かった。それ以外の感想はない。アルコールが入っているらしいが、正直よくわからない。そもそもアルコールをアンドロイドが摂取した場合にどうなるかなど知らないし、自分で試したこともないからわからなかったが、うるさく逐一報告してくるポッド042が特に何も主張しないのであれば、義体に影響はないのだろう。自覚症状も一切なかった。
「そうか、平気なだけでなくお前の場合はアルコールに強いのか」
「甘い、ということしかわからないが」
「飲酒可能なモデルは多くないだろう。レジスタンスの中でも飲酒可能なのは赤毛の双子の他には多くないんだが、それでもやめられないのか、毎年毎年理由をつけて酒を作っていてな。ただそれも、お前が飲めるなら無意味ではなくなるかもな」
「そもそも私は飲みたいとも、ほしいとも言ってない」
先ほどからまったく会話がかみ合ってない。ああいえばこういう、こういえばああいう。もともとA2は口達者なほうではなかったのだが、それにしても腑に落ちない。
「ヨルハ機体最新型は、飲酒が出来ないそうだ。作っておいて味見も出来ないと、2Bはともかく9Sは悔しがってね。それで調味料の調節がわからなかったから、この出来らしい。彼らは私たちより味覚部分は優れている一方、アルコールは受け付けないそうだ。そういう意味では、私たち旧型の方が楽しみは多いのかもな」
味に関しては勝手に改造して特化させたやつもいるから、味見はそいつにまかせてるんだ。先ほどから聞いてもいないことを一方的に話すアネモネは楽しそうだった。こんな彼女の顔は、初めてだ。彼女だけではない、もう今はいない仲間たちも、もしかしたら、こんな顔をしたのだろうか。こんな風に、たくさんのことを、話したのだろうか。そういえば無駄におしゃべりが好きな仲間がいた気がする。A2はいつだって聞き役だった。
「アネモネ。酔ってないか」
ぽつりとA2がつぶやくと、アネモネは一瞬真顔になってから、小さく笑った。
「私は何も飲んでないし、食べてもいない。何故そう思うんだ」
「よく喋る。よく笑う。私たちは…そんな風にすごした時間は短かった」
「ああ」
それは本当かどうかもわからない、もうあいまいな記憶だ。A2自身が生き延びるために、生き延びてしまったがために殺した記憶の残滓だ。残りかすのくせに妙に鮮明に、断片的に思い出す。ああ、あれは、苦しかった。つらかった。だから忘れることにしたけれども、たぶん、それだけではなかった。だから今もこうして記憶の片隅にデータが断片的に残されている。
そしてそこに上書きされるように重なっている2Bの記憶は、A2のわずかな残りかすを大切に包み込んでいた。あたたかい記憶。楽しいと感じた数少ない記憶。大切に、たいせつに重ねてきたものが、A2に受け継がれている。そしてA2はそれを、そっとしまいこんでいた。
だから、アネモネの話は漠然とした2Bの記憶をより具体的に補完するものに他ならない。そしてA2はそれを受け入れていた。2Bの記憶をなぞることが、A2にとって長年殺し続けてきた感情と記憶を刺激するものだとしても、A2はそれを望んでいた。A2自身は、まだそのことに気づいてはいなかった。
「仲間のことを話すのは、私にとっては誇らしいことなんだ」
「仲間、か……」
「今の仲間たちも、昔の仲間たちも、私にとっては誇りだ。私がこうしている意味だ」
そんなもの、私は。
「ああ、そうだ。せっかくだからこれも食べてみないか。面白がった9Sが色々作って置いていったストックが結構あるんだが、これなんかは甘い飲み物に合うんじゃないか」
いいながらアネモネが持ち出してきたものは、どう見ても干からびた果物だ。果物は確か昔から一部のアンドロイドたちが好んでいた食べ物のひとつだったが、なぜわざわざこんな干からびた代物がでてくるのだろう。アネモネはどういうつもりなのか。
「干からびているんだが」
「そういうものなんだ。森の国付近で見つけた果実を天日で干しただけのものだが、結構評判がよくてね。戦闘用アンドロイドにも有用な効能があって保存がきくから、だまされたと思って食べてみるといい」
「だから私はそんなものは必要ないと……」
「その姿。お前はまだ戦ってるんだろう」
声色を変えたアネモネを伺うと、今までの砕けた調子から想像できない真剣な表情をしていた。とっさに判断する。これは、リーダーの顔だ。そしてこれは、命令だ。
そんなA2の思考を見透かすようにアネモネが続ける。
「私はお前が生きていて嬉しいし、生きていて欲しいと思う。だからお前にはいろいろな事を知って欲しいとも思う。これは、私のエゴだ」
それは、共に、生きて行くために。
レジスタンスリーダーとして生きてきたアネモネの、多くを失った経験の上での、おそらく、たったひとつの、願いなのだろう。
彼女が見ているのは死ではない。
彼女は、生を見ている。
彼女の見ているものは、自分とはあまりにも、かけ離れている。
だから、その手をとるのにためらいが生じた。
けれど、A2が戸惑うように少しばかり腕をあげて、それから次の行動に移るまでの間、アネモネは何も言わなかった。そして何もしなかった。
彼女はA2がどういう性格であったのかを知っている。知った上で、その願いを告げた。とてもわかりやすくて、とてもわかりにくくて、余計なことを考えないようにして生きてきたA2には少々荷が勝ちすぎる願いだ。
だから。けれど。
少しばかり前の記憶が突如呼び起こされる。あの時の行動は能動だったのか、はたまた受動的なものだったのか、わからない。拒否することもできた。ただ目の前の、同胞の願いを無視出来ないと思ったからなのか、別の理由からなのかもあいまいだ。
ただ、ウィルスに侵されながらも告げられたひとつの、たったひとつの願いは、A2を縛っていた。死ぬ場所を探して殺し続けていたA2に、2Bが託した願いはあまりにも、とてつもなく、重かった。けれど、A2はそれを受け取った。
あの時と、同じだ。
受け取った武器はすんなりと手に馴染んだ。2Bが重ねてきた記憶の断片は、あっさりとA2の中に入ってきた。
「……吐き出すような味だったら、二度とここにはこない」
搾り出すように告げる言葉を聞いたアネモネが、表情を緩ませる。
「文句は私にじゃなく、9Sに言ってやってくれ」
アネモネは、わかっていっているのか。それとも、まったく他意はないのか。彼女が2Bの死と9Sの状態をどれだけ把握しているのかはわからない。わからなかったが、A2はアネモネから受け取った干からびた果実を一口、齧る。
自分の味覚に関する機能を試したことは殆どないので、先ほどの果実酒と同じように甘いという感覚が先に来る。
甘かった。
ただ、甘いだけではなくて、その萎びた食感と噛むことで加わる判別できない味わいが、咀嚼を促すということはわかった。そうすると不思議なことに、口の中にじわりと温かいものがにじんで来る。もう少し口にしてみたいという欲求が生じてくる。
甘い。けれど先ほどとはまったく違う。
――あんまり味付けはしなくていい
――それ、わりと作り甲斐なくなっちゃうんですけど
――別に、頼んでない
――あれ、そういう割には、全部食べてますよね
――9Sが作ってばかりいるから
――はいはい、2Bがたくさん食べてくれるから、僕はたくさん作りますよ、勝手に
音声データの断片が脳裏に再生される。これは、2Bの記憶だろう。2Bの記憶データを取り込んでから時折起きる現象だ。砂漠地帯でこそA2自身の自我データに影響を及ぼすのではないかと思い強制的にシャットアウトしたが、その後はこうした特に影響のない、いわばどうでもいいような音声データが、泡沫のように一瞬だけ浮かんでは消えていった。タイミングは色々で、戦闘中であることもあれば、こうして安静状態のときもあるし、休息時に突如再生されることもある。
A2はそれを消すつもりもなく、かといって特別意識するでもなく、自分の中にデータログとして蓄積されてゆくがままにしていた。それもいわば、2Bという機体が存在したことに対しての敬意を払ってのことだ。
同じヨルハ機体として、生きて、戦って、そして死んでいった彼女へ、A2ができる数少ないことのひとつだからだ。
「おい、二号、どうした?」
アネモネの声に、A2は思考と記憶に沈みかけていた自分を取り戻した。ああ、たしかにメンテナンスは必要かもしれない。それとも、これがアルコールの影響だろうか。あるいは、慣れない「食べる」という行為をした影響か。
「まずくはなかった」
「二号?」
うまい、ということがどういうことかはよくわからない。知らない感覚を表現することも出来ない。きらいな感覚ではない、けれど、肯定的な表現は慣れていない。
「ありがとう。まずくはなかったよ、アネモネ」
二号モデルは、皆、そうなのかもしれないな、2B。
きらいじゃない、と、9Sに対していくつもの記憶の断片の中で繰り返していた2Bは、たぶん自分と同じことを感じていて、そう、戸惑って、受け入れようとして、けれども言葉がうまくないからそうなるのだ。
自分と同じ顔をした違うアンドロイドとの不思議な共通点を見つけて、A2は少しばかりおかしかった。
「ありがとう、アネモネ」
繰り返される感謝の言葉の意味を、たぶんアネモネは理解しきってはいないのだろう。それでもアネモネはA2を見て満足げにうなずく。
「どういたしまして。またちょくちょく寄ってくれ、二号。また何か別のもてなしをしよう」
「ああ、楽しみにしているよ」
風は、相変わらず少しばかり肌寒い。
ただ、その肌寒さもどこか心地よかった。ここで少し休んでいくのも悪くない。そう思える空気と温度が、ここにはあった。まるで、それは、昔の記憶の残滓のように。