ヨナを守ることが出来る力が、欲しい。
ああ、無力な己などいらない。ヨナを守れないこの身など必要ない。力が無ければこの世界では何も守れない、命よりも大切なものですら、何も、なにひとつ。
だから力が欲しい。
何者にも負けないような、力が欲しい。
ニーアはこの時、純粋にそれを欲していた。無力な己のこの身など、心の底から必要ないと、思っていた。
手をぐっと伸ばした。ギリギリと痛む腕、滲む血を気にもせずに、できるだけ、もっと、あと少しだけ。願うように。
そこには、今何よりも欲する力があるのだ。たとえ己の身が蝕まれようと、娘だけは。純粋な願いだった。どこにでもある、切実で、けれども何の変哲もない願いが、ただ力を欲しただけだった。
それが、絶望の始まりであるなどとは、気づけるわけもなく。
そして伸ばされた指先が、黒い表紙に触れた。
とたん入り込んでくる己以外の何かの感覚――強烈で、自我などはあっというまに流されてしまいそうになるほどの、圧倒的な熱っぽい奔流が指先からニーアの中に一気に流れ込んでくる。同時に身体からは痛みという痛みが消え失せてゆきそのかわり何もかも破壊してしまいたいという、抗い難い衝動が溢れる。抗えないし、抗うつもりなどはない。灼熱の、陶酔にも似た心地よく荒らぶる感覚。ああ、これだ。これならばやれる。
ニーアは顔をあげた。目の前には蠢く影。獲物を見つけた、といわんばかりに、にやりと凄惨な笑みを口端に浮かべる。口の中がカラカラに乾いていた。歪んだ頬を、涙とも汗ともつかぬものが流れ落ちた。
――ころしてやる。おまえらを、ミナゴロシにしてやる。オマエラをコロす。コロして、マモるのだ、ヨナを。
手にした力は絶大だった。内から無限に沸いてくるようなそれはニーアが望んだように敵を叩き潰し、貫き、殺した。手ごたえを感じている暇すらないほど、数え切れないほど、向かってくるもの全てを滅ぼした、滅ぼせるだけ。我武者羅な力の解放は無秩序な音となり静寂をかき乱す。そこに加わる空気を引き裂くようないびつな悲鳴と、絶叫。そして哄笑――「コロす、コロす、シネ!シネ、オマエラは、シンデしまエッ!ハ、ハハハ、は、ハハハッ!」己の口から漏れる機械音のような、別人のもののような、コエ。
これならば何でも出来るというような全能感がニーアの体に満ちる。ヨナを守る。ヨナを脅かすモノは殺す。滅ぼす。その力がある。ああ、かかってこい。殺してやる。
ニーアが望めば望むほど、崩壊体が増えた。地面から、建物の隙間から、まるで涌き出るように彼らは現れ、そしてその都度殺した。殺し続けた。
最後に現れた身の丈ゆうに五倍はあろうかという巨大な崩壊体を黒く蠢く槍で貫き、巨大な手で叩き潰した。
断末魔ともいえぬ、くぐもった声と共に空中に霧散する影。彼らは霧になるように消え失せ――そして、最後にそこに残ったのは、静寂だった。
殺した。滅ぼした。ああ、ヨナを、守ったのだ。守ったのだろうか、俺は。娘を。
全身で息をしていた。気づけばびっしょりと汗をかいていて、両脚が鉛のように重い。節々が痛むが、それよりも皮膚の内側からじわりと鈍く痛む感覚が溜まらず、ニーアは頭を振る。鉄パイプを握り締めた右手がかじかんでうまく動かせない。静寂と共にゆっくりと地上に舞い降りてくる白――雪ではない、雪に良く似た別のもの。
ヨナ。
ヨナは。
耳に最初に届いたのは、凍り付いて悲鳴をあげた、風の音。それはどこか悲しげな断末魔に聞こえた―そして、静寂。建物の間を抜けてゆく風の音だけが時折耳に届く。ヨナは。ニーアは周囲を見渡した。積もった白い灰色に引きずられた跡のようなものがあちこちに出来ていて、地面が所々抉られているのみ、黒く蠢いていた屍骸はすでにどこにも存在していない。
小さな足音を、耳が捉えた。
「おとうさん」
「ヨ、ナ…?」
か細い、聞き間違うはずもない娘の声に、弾かれるように顔をあげた。
「だいじょうぶ?」ことりと首を傾げるヨナの顔は、声は、ヨナのものだった。かけがえのないヨナ。他の何ものでもない、たったひとりの娘。「ヨ、ナ……」その存在に縋らんと慌てて足を進めると縺れ、身体が傾ぐ。手を伸ばした。ヨナ。ヨナ、ヨナ。そこにいる、ヨナ。抱き締めなければ、と、痛切に思う。「おとうさん!」驚いたように声をあげて駆け寄ってくる。ヨナ。名を呼んで、鉄の塊を投げ捨てた――乾いた音があたりに響いて、耳障りだった。
「大丈夫だ、父さんは大丈夫だ…」
飛び込んできた小さな身体を抱き締める―存在を確かめるように。娘の、そして己の。「ヨナ、父さんは大丈夫だ」
「うん。あのね、ヨナも、へいき」
「ああ。寒くはないか」
「うん、へいき」
「そうか」
ほっと息を吐くと、身体が弛緩した。細い肩を抱きしめる手の力を緩めて腕の中の小さな娘の顔を確かめる。頬を赤くして、少し微笑むヨナ。ああ、ヨナは、ここにいる。
「戻ろう。もう、大丈夫だ」
抱きしめた温もりにそう告げる。大丈夫だ。全部、倒したのだ――敵は、命を脅かすやつらは、全てこの手で殺した。
「ここは、寒い」
続けてから、顔をあげると娘の少しばかり不安げな表情があった。少し笑みを見せてやれば、ヨナは心底ほっとしたようににっこりと笑う。
「もうオバケはこない?」
「ああ。さあ」
言って、脱げていたコートのフードをすっぽりと小さな頭に被せ背中を促す。
「うん……けほっ」
歩こうとすると、小さな咳。ぎくりとしてニーアは娘を、その小さな顔を、表情を、確かめる。
「ヨナ」
「うっ、…だ、だいしょ…ぶ、…けほっ」
小さな胸に手をあてて、繰り返し咳をしているその身体を少しでも冷たい外気から守ろうと、もう一度抱きしめた、その時だった。
視界に走った一瞬の影――咳をしている喉を抑えているヨナの手首に、一瞬走ったその黒く禍々しい―先ほどまで散々見ていた、それを目の当たりにし、その瞬間ニーアの心臓は止まってしまうのではないか、と思った。 冷たいものが直接心臓を鷲掴みする嫌な感触と、恐怖。まさか。いや。そんなはずはない。あるわけが、ない。ない、だが――
「ヨナ……」
あれに触れたのだ。やはり、ヨナはあれに触れていた。遠からず影響が出るだろうとどこかで覚悟はしていつつも、そんなことはあるわけがないと思い込んでいたのだ。あって欲しくはないことだった。だが、今自分が動揺すればどうなるか。それに、もしかしたら。一瞬で様々な思考が脳裏を駆け巡る。立った一つ変わらぬものは、娘を守るのは自分しかいないのだという事実と、その為に生きているのだという実感。
「ああ、大丈夫だ」
誰のための言葉か。娘の、己の――どちらともとれぬ言葉を繰り返して、ニーアはしっかりとヨナを抱き締めていた。