静かにひたひたと覆ってゆく影が、建物を、森を、道を、すべてを、ゆっくりと飲み込んでゆく、それが即ち夜である。
 太陽は決して沈むことは無くぼんやりとした光が世界を常に包んでいる。が、無機質な廃墟と化した街並みは「雪」に覆われて死んだまま朽ちてゆく。吹き抜ける風の音はいっそう寂しげで、雲海から時折漏れる光ですら恥じるようにすぐ姿を隠してしまう。石。瓦礫。鉄くず。倒壊したかつての文明の抜け殻。うっそりとそれらを覆う植物だけが、この世界の住人に等しくすら感じられる光景が、そこには広がっていた。一切の静寂に、影が落ちた。
 そこに人、人であったものの形跡は殆どなかった。だがそれは「病」を克服した人が再び地上に降り立つことが出来ればどうにでも出来る類のものだ。再びこの土地に文明の息吹を齎すことは、それを必要とする人々さえいれば、決して難しい類のものではない。
 ポポルとデボル。彼女たちは双子の姉妹。姿形はそっくりに創られたアンドロイド。導くものは人々、人々の形を失い来るべき時を待つ幾多の魂。夜の姿を失った、死に絶えかけているこの世界で、彼女らの存在こそが、人々に残された最後の希望だった。

 世界は、黄昏に包まれていた。原因不明の病――白塩化症候群により、人類は滅亡の危機に瀕している。それを打開すべくあらゆる手段を模索するも、結果は世界の殆どを廃墟と化し異形のものーマモノが地上を闊歩するようになっていた。天が裂け地が割れたあの日、悪夢のような日々の始まり。突如舞い降りた異形の化け物ーそれは奇しくも想像上の生き物、竜に似ていた為に通称「竜」と呼ばれているそれが、新宿に舞い降りたのだ。「竜」はなんとか撃退するも、その死骸は呪いと病、奇跡と可能性を産んだー前者は白塩化症候群といわれる、突如として肉体が塩化現象を起こし、数日で死に至る病。そして後者は、通称「魔素」という未知の物質の発見による大いなる文明の進歩と、「魔素」を利用した魔法ー無から有を生み出す技術の総称の確立だ。
 「ゲシュタルト計画」とは、その魔法の利用により、白塩化症候群の感染を防ぎ、ひいては治療を目的としたものである。
 決して治すことも出来ず罹患することも避けられない白塩化症候群から逃れるために、魔法によって魂を抽出し元の肉体は保存する。肉体的な死を避けるためにそこに疑似人格を宿し、疑似的な生命活動を起こさせるのだ。もちろん肉体にも魂にも死期はあるが、抽出した魂――ゲシュタルトは崩壊体とならない限りは何度も再構成が可能であることが立証され、また唯一の懸念材料であった一定の時間が経つとゲシュタルトは崩壊体となってしまう件に関しても、半ば永続的に魔素を供給出来る「オリジナル・ゲシュタルト」の存在により当面の心配はなくなり、ゲシュタルト計画はその遂行さえ間違わねばほぼ問題はないとされていた。勿論、何事も確実という訳ではないが、少なくとも魔素の供給によりゲシュタルトの崩壊体化さえ防げれば、あとは白塩化症候群をくい止める、或いは治癒する手段を見つければよい――これが、ゲシュタルト計画の概要だった。
 或いは、その手段が見つからないかもしれない。が、計画を作り上げた機関もそして彼らにより「計画遂行のための最重要な駒」として創られたアンドロイドたちも、そのような懸念のことは、そもそも考えなかった――それほどに、状況は最悪だった。どうにもならないほど、当時の世界は滅亡寸前だった。

 人類は、それでもすべてを諦めることなく希望を抱き続けて、この計画を実行したのだ。


「この世界に、夜はないんだな」

 薄闇にデボルはささやく。朽ちかけた屋内は無機質で、埃は闇に溶けて動く気配は微塵もない。
 大きな窓に上体を預けた姉はどこか愉しげだった。ポポルは彼女の言葉の意味を理解していたが、何故そんなことを言うのかは理解できない。
「そうね」彼女の言葉遊びはいつものことだから、適当に応じながら手元の書類に再び目を落とす――全ては、順調だ。通称ゲシュタルト計画というそれは、死滅しかけている人類救済の唯一の手段である。自分たちは計画を遂行するために存在している。そして計画の遂行に影響或いは関わらないことであれば、さして意味はない。どころかそれはほぼ無意味だと、ポポルの中では定義づけられている。
 だが双子の姉のデボルはそうではないのか、しきりにこうしたどうでもよい言葉遊びに興じ、レプリカントの中で歌を歌ったりもする。ポポルにしてみると、それこそ無意味だった。どうせ使い捨てられるだけのレプリカントという存在と関わって、有益なことは一つもない。レプリカントとは、抽出された魂が何れ戻るであろう肉体を維持するために生と死を繰り返すだけの存在だ。第一、彼らの意志や感情自体が作り上げられたものなのに。
「夜が来ない。いや、そうじゃないな。これを、あたしたちは夜と呼んでいるのだし」ふいに指先を擡げ、空気をかき回すように動かしてから、したり顔でデボルは頷く。

「当たり前のことを当たり前ではないように言うのは、あなたの悪い癖ね」
「詩人だといってくれよ。あたしは歌うことも好きだからな」指が虚空に何かを描くように動く。声が弾んでいる。暗がりにも、癖のある髪がゆれる様がよくわかる。彼女は愉しんでいた――ポポルには、やはりそれが不思議だった。何よりもそれは明確に「感情」とよばれるものだと、感じていたから。

「私にはよくわからないわ」
「そうだなぁ…そうかもしれないな」ようやくこちらを振り向いた姉の顔には、彼女らしい表情がはっきりと表れていた。
 レプリカントたちを円滑に統括するため、自分たちに人間の感情に似せたものをプログラムされているとわかっていても、デボルは実に巧みにそれを扱っておりポポルは最低限度しか使いこなしてはいない。
 その差が、羨ましくもあり忌々しい。わたしたちは双子なのに、何故少しばかり違うのだろう。ふとそんな思いがポポルの中で小さく動いた。こんなものは、あまり合理的ではないし無意味なのに。擬似感情なんてものは、まったく。誰に向かうでもない言葉は小さなため息とともに、暗がりに消える。

「大地が歪み、天が嘆き、夜は闇を失い人は光を喪った」

 デボルの歌言葉にさして意味はない、と当人は言う。が、それは楽しげに細い指先を窓辺に走らせ、楽器に見立てて弾きながら、デボルは謳うのだ。それは、とても、楽しげに。彼女はこの無機質でつまらない世界を、謳歌しているのだろうか。目的を知りながら。無意味だと、理解しながら?ポポルの中にいいようのない、抗いがたいノイズがさっと奔る。デボルの歌声は、思い付き様出鱈目の癖にポポルの耳にはさらりと、心地よく、違和感無く響くのだ。それは双子だから?わたしと、デボルは、似せて作られたから?似ていたから?等しくある必要はないがきわめて同一に近い存在だから?デボルの紡ぐ音は、ポポルにとって違和感は一つもなかった――たとえば、次の音は容易に想像がついてしまう。
「人は影に、何れ光の丘に」デボルがはっとしたようにこちらをチラと見る。少しばかり得意な気持ちになり、デボルは己の思うがままに続けてみた。「夜は永遠の太陽を得て、世界は光に包まれる」ポポルが言葉を終えるや、デボルが小さく頷き再び口を開いた。

「世界は灰に満ち、すべては白き祈りの元に沈黙する。それは約束された来るべき日の為に。影はやがて光を得て光は闇に還る」

 気まぐれに続けた言葉を終えて、ふう、とデボルは息を落とした。薄闇は、少しばかり闇の濃度を増していた。「意外だな」
「あなたの、真似をしてみただけよ」書類を片付け、今日の「仕事」はこれで仕舞いだとばかりにポポルはさっと立ち上がる。
「ふうん、まあまあだな」デボルは、おどけて少年のように笑った。