カイネは、黙っていれば見目秀麗な顔をこの上なくゆがめ、荒い鼻息で応じる。けれども、そんなカイネの態度など何処吹く風、どころかこちらも譲れないとばかりにぐるりと(それは器用に)頭部を一回転させたエミールは空中で上体をそらした。位置的には、丁度カイネを見下ろしているのだが、そのどこか滑稽で愛嬌さえ感じさせる「化け物」は、カイネの怒気をすっかりといなしてしまう程度の威力は十分にあった。むしろ、このエミールという子供はその威力が十分すぎた。
「今日という今日は、ぜったいだめです!カイネさん、三日も眠ってないじゃないですか」
「私は平気だ。構うな」
「いやです、だってカイネさん、今日はとても疲れてたじゃないですか。だから」
「くどい」
なるたけ冷たく突き放した言い方をしたつもりだったが、語気がいつもよりも劣っていることはカイネ自身が痛感していた。エミールの言葉は嘘ではなく、久しぶりの疲労というものを覚えていたのも事実だ。マモノは日々強力になりつつあり、世界は徐々に光を喪っている気がしてならない。それは、とてつもなく良くない出来事の前触れのようで、カイネの中に蠢くものはその懸念を肯定していた。
――なら、少しくらいは休んでも良いか。
緊張しきっていては疲労が蓄積するし、常人よりもはるかに頑丈な身体とはいえ限界もある。無理が出来るからといってそれを通せば、仲間達に余計な心配をかけてしまう――以前ならば必要のなかった懸念。いつの間にか芽生えていた、或いは取り戻した優しい感覚。けれども、自分にはまだそうした言い訳がどこかで必要で、自分に言い聞かせる言葉を脳裏に浮かべた瞬間に、カイネの中で声が弾ける。『カカカッ、カイネ、いいじゃねえか、たまには』「…うるさい!」
「カイネさん?」
耳障りなマモノの囁きに思わず反応してしまったカイネを、エミールは不思議そうに見ている。「…いや、…わかった、エミール」くるりと首を回転させて傾げてみせるという器用な真似をするエミールに、カイネは柔らかく微笑んでみせた。降参だ、の合図に両手を挙げれば、エミールは愉しげに笑う。笑った、とカイネは感じた。
「はい、それじゃカイネさん、お休みなさい。あ、そこから出ちゃ駄目ですよ!」
「無茶を言うな」
カイネは、寝相が悪い。それは自他共に認める事実で、カイネもその自覚はある。別に褒められたことでもないのだが、殆ど野宿で済ませてしまえば、あまり意味はないというのはカイネ自身の考えだ。ニーアはそれを「カイネらしい」と笑いシロはすぐさま小言の材料にした。結界から出るなとエミールは言うのだが、元々その結界はカイネの寝相の悪さも織り込み済みであろう広さである。そういう配慮が少し鎮まってきた心にこそばゆい、決して不快ではない感覚を意識させる。全身の緊張が、じょじょに緩やかになってゆく。
「もー、カイネさんはしょうがないなぁ」
ぶつぶつと子供らしい文句を続けるエミールを尻目に、カイネはふわりと柔らかな光を放つ草の上に身体を横たえた――エミールが、休んでいる最中にマモノに教われないようにと張った魔法の結界のようなものだ。これが、テュランにも少なからず影響を与えているらしく、気が向けば余計なことばかり喋るマモノは、今日に限っては大人しい――テュラン曰くは「なんとなく不愉快な方にむずむずする」らしいが、カイネは何も感じない。それでも、時折広大な草原を横切るマモノたちは、確かに決して寄り付かない。
――器用な真似をするものだ。が、確かに心地よいな。
そう感じているのは事実だった。マモノが憑いているからこそ殆ど不死身である肉体が再生する時のおぞましい感覚とはまったく別の、遠い記憶が緩やかに蘇り、からっぽの心の中がほんのすこし満たされる――望んでもみなかった、とても穏やかな心地がカイネの意識をゆっくりと、揺らしていた。「お前がマモノ憑きなら、俺は人間憑きってことか?あ?」カイネが目を閉じ、まどろみに意識を乗せる直前、テュランがそんな事を嘯いた。
カイネが目覚めると、目の前に横たわるエミールの姿がある。嫌な感覚がぞくりと背筋を這い、慌てて覗き込めば穏やかな寝息が聞こえてきた。
「…なんだ、驚かすな……」
いつもならば余計な口を挟んでくるはずのテュランの声がない。あれも、では眠っているというのだろうか?ふとそんな事を考え、カイネは苦笑した。あんなやつの心配をしているということが、おかしい、と感じた。
そのまま起き上がろうとしたが、見ればエミールの手がカイネの指先に絡んでいる。人の本来のぬくもりとは程遠い、真っ白な骨だけの「指先」は、不思議と熱っぽく感じられた。ああ、これは人の体温だ、とカイネは思う。自分を恐れることも疑うこともなく無邪気に慕い、簡単に寄り添って、すぐ頼る。どこまでも子供っぽい思慕をむき出しにするエミールは、存在そのものがカイネにとって優しかった。こうして眠りこけている姿を見る自分の表情が和らいでいることも、やはりおかしい。おかしいが、あえて否定する気はカイネにはなかった。そういう穏やかさは、エミールやニーアがあってこそ取り戻した、自分自身なのだ。
絡んでいる指先をてのひらで淡く包み込むと、ぴくりと手の中で動く気配が感じられる。「う〜、…シロさん、カイネさんと、また…」不明瞭な言葉が漏れて、エミールがころりと寝返りを打つと、カイネの胸元に倒れこんだような姿勢になった。
「私とあのクソ紙がどうした?」
くすりと小さく笑いながら囁くが、目覚める気配はなかった。再び口の中でもごもごと呟いて、エミールは寝息を立てている。カイネは、繋がった指先をそうっと外して、小さな身体を右腕で抱いてみた。
「エミール、お前は、温かいな……」
やはり、腕の中の小さな身体は、不思議と体温を感じるそれだった。人のぬくもり、心地よい感触、緩やかな風の音すらが再びのまどろみを誘う。回復したはずの身体が、少しだけ重たく感じられて、カイネはもう一度夢の世界の住人になることにした。
「カイネさん!カイネさん!起きてください、カイネさーん!」
声が、頭の上から降ってくる。何事だと目を開ければ、こちらを覗き込んでいるエミールの顔が至近距離だ。同時に、鼻先をくすぐる良い匂いを嗅いだ瞬間に、カイネの腹が切なそうに鳴った。
「あ、カイネさん、おはようございます!」
「ああ、…おはよう…」
眠りすぎた所為か、思考はぼんやりとしていた。再び腹が鳴る。それに気付いたエミールが、小さく笑った。「ニーアさんたちが、ご飯持って来てくれたんです、ほら」
「おはようカイネ。どうやら、よく眠れたようだな」
苦笑するようなニーアの声と、弾むようなエミールの声。ようやく覚醒してきた意識でまず最初に確認したのは、随分と体が軽い、ということだった。
「ああ、随分…眠りこけていたようだな、私は。エミール、お前のお陰だ」
「え?」
一瞬きょとんとなり、「あ、それはよかったです!」と嬉しげにエミールが笑う。「何だ小僧、この下着女に催眠術でもかけたのか」「……焚き火にくべて燃やすぞクソ紙」すぐさま繰り広げられる何時もの応酬にニーアが苦笑を重ねた。
ふいと見上げた空が、今日は青い。眠りに着く前の重たい鉛色とは打って変わった晴天だ。今日一日ばかりは、少しだけ良い日かもしれない。らしくはないことを思い浮かべるカイネを、一緒に目覚めているであろうテュランはせせら笑わなかった。