訪いを告げるノック音は控え目ではあったものの、アグロヴァルが応と返事をする前に、部屋の扉が開いた。
 扉の向こう側にいた顔に、アグロヴァルは小さなため息とともに納得する。なるほど、かの人物であればこうした訪いを――氷皇アグロヴァルの私室であると知りつつこうした態度を取れるのは、この挺においては片手で数える程度であろう。そして、来訪者はその片手で数えられる中のひとりだ。

「これ、邪魔をするぞ」

 こつこつと開いた扉を叩く少女は機嫌がよさそうに笑って、部屋の中に徒を踏み入れた。

「そなたか。何ぞ我に用か」
「そうじゃのう、まあ、そなた相手だと話も弾むかと思うてのう」

 にこにこと悪戯めいた笑みを浮かべてはいるものの、ふたいろの瞳は笑ってはいない――それは部屋に入ってきた瞬間・アグロヴァルの姿を認めた瞬間から感じていた、醒めているというよりか、どこか寂しげに、懐かしげにさえ感じられる色だ。
 アグロヴァルはこのフォリアという、少女の身なりをしているが実はアグロヴァルと同世代という不可思議な存在のことを多くは知らない。
 団長のグランいわくはナル・グランデはイデルバ王国という他空域の王であったということ、とある理由から王を退いたということ、現状国は国民に選ばれた「執政官」と呼ばれる複数の民間人により治められているということ、その程度のことを知り及んでいる程度だ。
 もっとも、その国の現在の形態も、アグロヴァルからすれば未知の領域に等しきものではあったが、なるほど、そうしたことを問うよい機会かもしれない。
 自らもっとも優れた王たりえんとすれば、あるいは王という存在がなくとも成り立つ政の形態というものにも、興味は及ぶ。ウェールズの書庫に存在する古い文献でそうした政治形態が存在するということは知っていたが、実際にどのようなものであるかを、知っておいて損はないだろう――思考はすぐさま結論を導き出し、少女の訪いを歓迎した。

「なるほど。あえて我と会話をと望む変わり者は、そう多くはない。なれば客人よ、茶の好みなどはあるか」
「あや、そのように氷皇たるそなたに気を遣わせるのはどうものう。そう思うて妾も故郷の茶を持ってきたんじゃが!」

 子供のように目をぱちくりとさせて戯れる少女に、アグロヴァルは口角をあげる。彼女がまとう雰囲気からも常々感じてはいた。ふつうではない、何かの理由があってこの挺に乗っている、高貴な出自の人間――自分と同等か、あるいはそれ以上か。そうした嗅覚に関してはアグロヴァルは弟よりも鋭いという自負はあるし、事実故国の王として上に立っている以上必要な感覚でもある。その王の感覚からすると、確かに元国王という話は真実と思えた。それが、いたずらが成功した子供のようにはしゃぐさまは、なんともいえずにむず痒いような違和感を感じる。無理をしてはしゃいでいるような、そんな風にすら。

「では、互いに茶を振舞うというのはどうであろう。我もまた他人にこうして茶を振舞うことも、たまにはよいだろう」
「はは、それはまた愉快な偶然じゃが、妾もそう思うておるぞ。して、そなたのご自慢の茶はいったい何かのう」
「それは、互いに知らぬほうが愉快ではないか?」

 軽い言葉の応酬ですらもアグロヴァルは愉しさを感じていた。これは、やはり、彼女の底の知れなさからくるものであろう。久方ぶりに他人に対して興味を覚えたアグロヴァルもまた興が乗り、自ら先に立ち上がる。

「うむ、では、なにやら茶菓子もあったほうがよいかのう」

 くるりと手にした小袋をまわしながら、フォリアは楽しげにつぶやく。もともと持参すればよかったものを、あえて調理場に誘う思惑が何かはわからぬが、付き合うのも悪くはない、とアグロヴァルは思った。

「それも道理であるな。では、調理場にでも行くか」
「そなたが作るのか?」
「否、何れかの料理人がいるであろうからな」
「まあ、そうじゃろうと思うたが、少しばかり驚いたわ」

 アグロヴァルが率先して歩き出し、それを見たフォリアも軽口を叩きつつ踵を返し、二人は連れ立って調理場へと行くのだった。



 なにか小腹にいれられるものはないか。フォリアが時折夜半過ぎに厨房を訪れ、担当者に無心する光景は珍しくはなかったし、それはなにもフォリアに限った話ではない。だが、今晩だけはいつもとはわけが違った。
 同伴者がカインやレオナといったイデルバの将であれば、特にカインは身分など気にも留めぬ気さくさがあり、ローアインたちの姦しさを楽しんでいる風すらあった。だが、今回の同伴者は彼らではない。

「ちゅーかこれDOいう状況?」

 思わず配膳台の影に揃って隠れて声を潜めるローアインに倣い、エルセムとトモイも己の口元にてのひらを宛がい声を潜める。

「っべーし、なんかパーさんの兄貴と、フォリアちゃん?俺らからしたら天井人つーか、一緒にいちゃいけない系っつーか。そもそも同じ場所にいたらアウトオブアウト?」
「ばっかおめなにいってんだ。とりあえず黙ってフォリアちゃんが好きなイデルバ風?のあのココナッツ使ったスイーツ作ってればいいべ?っておいこらさっそく砂糖の量間違えてっし」
「あっやべトモちゃんサンクス」
「ほらそこ手を動かすー、それ、配分間違ったら大惨事間違いねーから。したら俺らグラサイに居場所ねーから」
「っべー、それはっべーわ。ガチでマジになんねえとダンチョにたたき出されるわー」
「だから最初から言ってんだっつーの。ほらエルっち、そっちシクヨロ」

 いつの間にやら作業台を前に配置につき、てきぱきと手を動かしてしまうのはすっかりこの場所での調理作業が身についているからなのだろう。そんな三人の様子を、フォリアとアグロヴァルは愉快そうに眺めているのだった。


 ひときわ高く、澄んだ水の気配にエウロペは顔をあげた。この気配を知っている――認識している、というのが正しいか。
 ガブリエルの命によりグランサイファーに乗るようになって初めて知った他人、人間の気配の中でもひときわエウロペの興味を引き続けてきた存在だ。彼女の持つ水の気配は強く、気高く、そしてなにより美しく感じられる。なのに同時にひどく混濁し、恐れ、美しさの反面醜さもある。醜いものはきらいだ。けれど、彼女の持つ水はその双方を内包し、それでいて気高い。それは純粋な疑問だった。
 人間という存在は複雑だとガブリエルから告げられてはいたが、なるほどこのグランサイファーには彼女と同様、相反する水の気配を持つ人間が多かった。その中でもひときわ目立つのが、フォリアという少女だ。

「あなたは、何ゆえにそのようにこの場に立つのですか?」

 甲板で夕暮れの空に見入っている少女に声をかけたのは、己の疑問を解消したいという欲からだ。知りたい、とエウロペは強く思う。彼女を、彼女のことを。彼女のことを考えると「なぜ」で頭は埋め尽くされてしまうから。

「それはまた、どのような疑問かのう?」

 くるりときびすを返す少女の銀髪が風に煽られ、きらきらと夕日が透けて橙や赤に輝く。夕日を背負った彼女の表情はわかりにくいが、声から察すれば機嫌が悪いわけではないだろう。常に共としている同胞は黙ってエウロペに視線をよこすものの、口を出す気配はない。
 声をかける直前までの彼女の表情はひどく硬く、他人を寄せ付けない雰囲気すらあった。エウロペに対し応じたその後も、どこか硬い雰囲気はそのままだ。どうも人を食ったような言動をする、などといわれているフォリアだが、独りでいるとたいていこのように頑なな表情でいることが多い、そういうことは、彼女という存在を気にかけているエウロペであれば気づけたことかもしれない。

「私は……いえ、私には、ちぐはぐである貴女が、とても美しく思えるのです。これは感覚であり水の使途たる私独自の感覚。貴女の持つ水の力は空の民にしては崇高で、気高く、澄んでいる……澄みすぎている、ともいえます。なのに、中心を取り巻く水は、濁流のようで、海原のようで、とても、……不自然、なことです」
「不自然とな。なるほど、天司の使徒にはさすがに見抜かれてしまうかのう」

 小首を傾げながら一人納得するフォリアに、エウロペの疑問は募る。

「それは、どういうことでしょうか?」
「うむ。そなたが妾を不自然と思う所以はいろいろあるとは思うがの。たとえば、妾の年齢は見た目どおりではなく、それは己が魔力が強すぎるがゆえじゃ」

 それは、初耳だった。人間の見た目を気にしたことはあまりなく、彼女のような例も少なくはない、まして空の民ではなく星の民ともなれば。もっとも、彼女は空の民であるから、そうすると珍しい部類かもしれないが。

「そう、なのですね……。いえ、けれど、貴女の持つ美しさの説明には、ならないのでは」
「そなたのいう美しさがわからぬが……。はあ。なにやらそなたには嘘偽りがいえぬ。すべてを見透かすような目じゃ。それもそうじゃな、水の使徒や」
「私には、それが正しい言い方であるのかはわかりませんが」
「妾の好きなように言うておるだけじゃ。反論せい」
「そういわれましても、私には貴女に反論する言葉はありません。ただ、貴女から感じる力の本質を知っていてなお、その立ち姿が美しいと感じること、その疑問に答えていただければと」

 ぴしりとちいさな指先がエウロペの鼻先につきつけられる。きょとんとそれを眺めるエウロペに、フォリアは大仰なため息をついた。

「そなたの言うことはわけがわからぬのう。まあ……そうじゃな。妾がここに立っている理由、か……」

 夕暮れの橙は赤みを帯び、やがて深い宵の色へと刻々と変化してゆく。その世界の色が転じる中で奔放に翻るフォリアの銀髪がきらきらときらめき、エウロペの目を焼いた。その眩さに、エウロペは、瞬きをする。

「妾の昔話を聞いてくれるかの、エウロペとやら」
「はい。ぜひ、聞かせていただきたいです。それで、その美しさの理由がわかるのでしたら」