静かな室内に響くのは、熱された水が気化してゆく控え目な音と、火の原素を利用した暖房器具が呻る低いゆっくりとした音のみ。客室だからなのかこの国には珍しく大きめに作られている窓の外は恐らく白と灰色の空だろう。時折ひどく遠くから風の音らしきものが耳に届く。
そんな中、はあ、と盛大な溜息がひとつ。
徐に額に触れてみるが、そこにある濡れたタオルはとっくに温くなっていた。目元のあたりの妙な感覚はとれてはいないし、体全体は眠りに落ちる前とたいして変わらない重だるさに支配されていて、額に触れるだけでも億劫なほどだった。
―――視界が、まっしろだ。
とりとめもなくて、どうでもいいようなことをぽつりと考える。そんな風に、至極どうでもいいことしか頭の中浮かんでこないのだ。何かもっと具体的なことを考えようとしたところで思考回路はこれっぽっちも動かない。そのくせ漠然とした焦燥を感じたり、おぼろげに不安になったりもする。それもこれも、たぶん、熱の所為だ。
―――まったく、不甲斐ない。
続く自虐的な言葉すらも、脳裏にすら浮かんではこないのだ。そんな下らないことを考えるのならば体を休めろと、他ならぬ自分自身が理解しているし実際この状況で何かが出来るわけでもないのだ。
こうなってしまうと、時間というものはひどくゆるやかに過ぎてゆくものなのだな、と思う。
寒々しい音が、ぶあついガラスを隔てた向こう側から届く。幾らこの雪国を訪れる回数が増えてたとはいえ、この体の芯から冷えてしまうような心細い音は、普段はストラタ住まいの身にはやはり慣れることは出来ない。部屋は十分に暖房で暖かさを保っているというのに、自ずとふるりと身体を震わせ、毛布を手繰り寄せる。
任務先で体調を崩す、など職業軍人としてあるまじき出来事を、それでも律儀に本国へと報告すれば、丁度良い機会だから身体を休めろなどと言われたところで、ヒューバートという青年は安堵してこれ幸いと身体を休めることが出来るような男ではなかった。知己でもあるパスカルにフーリエ、マリクとフェンデル重要人物三人がかりでようやく口説き落とすのと、ヒューバートの体力が尽きるのとは、ほぼ同時だった。
曰く疲労が蓄積した結果のただの風邪なので数日養生していれば治るものらしいのだが、ヒューバートの性格をよく知るかつての仲間二人にかかっては、流石にヒューバートも諦めた。実際、この状態で無理をするよりも治すことに専念した方が効率はよいということくらいはわかる。
とはいえこうして日がな一日をぼうっと寝て過ごす、などという過ごし方を殆どしたことのない青年にとっては、なんとなくバツが悪いような気がないわけでもない。考えても仕方ないのだと理性では割り切っているハズなのに、とりとめのない感情は細々と主張を続ける。
以前、熱を出したのはそういえば何時だったか。
ストラタに渡ってからの記憶には、特にない。否、なかったわけではないのかもしれないけれど、このように寝込んだことは皆無だった――それもこれも、日々が緊張の連続で息つく暇がなかったからなのだが。
そんなことをふと思い出して、ヒューバートの頬が僅かに緩む。熱に浮かされた双眸は、少し湿っぽく揺れた。
部屋は静かに水蒸気の音を響かせて、白い天井は白いままだ。
この部屋の静けさのように、心の中も頭の中も、蒸気の音とほんのりと温かな空気のようなものだけになってしまえばよいのだ。自棄になるようにそんなことを思い、ヒューバートは毛布を頭から被り、眼を瞑った。
視界が白い。誰もここにはいないのだ。何も、自分以外のものは存在してはいなくて、だからそれはとても楽で、安らげる空間なのだ。やらなければならないことも、すべきことも、養父の刺々しさしか感じられない視線も父の温かさを感じようのない視線も、従兄弟の嫉妬じみた視線も、そして忌々しい兄の、あの、全てを当たり前のように受け止める、あらがいようのない視線も――。
けれど、では、どうして、こんなに自分は不安なのだろう。
どうして、こんなに寂しさを感じているのだろう。胸の奥が、疼くのだろう。身体が弱っているからなのだろうか。何もないそこで、ヒューバートは己の小さな身体を抱き締めるように身震いした。ヒューバートは、幼い頃に―まだ、兄を兄と無垢に慕っていたあの頃の姿のままだ。兄さん、と呼ぶことがあたりまえで、日常が当たり前にあった時の、けれども現実はそうでないと知っている、そのアンバランスさが一層不安を煽る。
理由のない不安に突然襲われるということは、決して珍しくはなかった。まして、こうして風邪を引いているのだから尚更だろう。けれども、何故、こんな時に。かつては仮想敵国としか考えていなかった(そういう認識はストラタ軍人の間では当然の、常識のようなものだった)フェンデルというほぼ未知であった国に滞在し、例え国交が正常化し旧知の要人がいるとはいえ風邪をひいてしまうなどという、将校にあるまじき醜態を晒しているというのに、何を暢気に、子供ではないのに。
おそらくは夢の中だからなのだろうが、こんな子供の頃の姿にまでなって不安に心を痛めているという滑稽さに表情を歪めようとするも、己の意に反して、表に出てきたのは零れ落ちる涙だった。
これは、何なのだ。
まったく、わからなかった。情けなさなのだろうか。不安なのだろうか。恐怖なのか。わけもわからず、けれども、涙は次から次へと零れて、落ちてゆく。白い空間の中に小さく染みを作って、わけのわからない感情が溢れてくる。
寒かった。怖かった。こんな場所で、不安になるしかなくて、わめくこともできなくて、たったひとりで。
息が、苦しくなってきた。思わず鼻で呼吸すると、か細くて幼い音が漏れる。きつく眼をつむりると、ヒューバートの意識は深い場所へとゆっくり、沈んでいった。
*
「……ぁ……」
幽かに漏れる声にぴくり、と節くれ立った指先が動く。起きてしまったのだろうか、内心少しばかりの焦りを抱えながら、だがそのようなそぶりはおくびにも出さずにマリクは静かにその顔を覗き込み様子を伺うのだが、閉じられた瞼が上がることはなかった。が、目尻にじわりと滲んだものが静かに揺れているのを認め、そうっと指先でそれを拭ってやると、再び小さな声が唇から漏れる。
「……どんなに大人びて見えていても、子供、か」
アスベルの言葉がふと脳裏を過ぎり、次いで告げられた言葉を思い出してマリクは小さく溜息をついた。手のひらは汗ばんで未だ熱っぽい額に添えられたままだ。
普段はその立場も相まってひどく背伸びばかりをして、大人の真似を必死にしたまま大人になりきっている青年は、時折おどろくほど幼く見える時がある。そういう姿を見る度に覚える感情と疼きに、マリクはけれども未だ慣れることが出来ないでいた。過去の苦い思い出のこともあるし、同性だということもある。理由は山ほどあるのだが、少なくともそれらが重なり合って結果互いに好きあっているというのに不器用に接することしか出来ないでいるのだ。今でも。
「…こういう風にしか、オレはまだお前を慰めることは出来んし、お前もオレに甘える事は出来ない。まったく、面倒な感情だな…」
ゆっくりと、マリクのてのひらはヒューバートの額を、柔らかな頭髪をなでる。生きてきた年齢と抱えてきたその労苦が滲み出る指先が、初々しさすら感じる汗に濡れた短い前髪にふと触れる。まるで壊れ物に触れるように――ひどく大切な繊細なものに触れるように、ゆっくりと指先がその空色を玩ぶ。「ヒューバート」小さく名を囁くと、その声に応じたわけではないのだろうがヒューバートの身体がふるりと揺れた。
と、今までその寝顔に浮かんでいた不安げな、どこか落ち着かない表情が僅かに緩む。緊張の糸が切れたかのように、青年の寝顔からすうっと苦味が薄れてゆくように、マリクには見えた。やがてその寝息が、落ち着きを取り戻す。
触れている額は、やはり少し熱っぽい。体温が下がったわけではないのだろうが、表情がひどく穏やかだ。
「本当に、お互いに、面倒だ」言うマリクの声色は控え目で、ひどく優しい。熱を下げるためにタオルを取替えてやるハズが、あまりにも不安げで泣きそうな寝顔に思わず触れてしまっていたことを思い出してマリクはてのひらを離そうとした。
が、何時の間にやら控え目に伸ばされている熱っぽい手が、マリクの腕に触れていたのだ。一瞬その意識を確かめようとするも、マリクは思いとどまり、半端に開かれている銃剣を扱うにはあまりにも頼りなさげなそれを静かに、握り締めていた。
「…オレはどこにも行かんよ」
囁くように告げる。「どこにも、な」繰り返し告げると、汗ばんだ手のひらがわずかに震えたような気がした。