外に出てみると、ひんやりとした空気が気持ちよかったので歩こうとマリクは考えた。こうして静かな夜というのも良い。明日は決戦という状況だからこそ、この静けさはなんとも心地よかった。
それは何もマリクに限った事ではなかったようで、一度はアスベルと橋の上で出会い短い会話をした。それでアスベルは館に戻ったのだが、彼と入れ替わりに今度は弟の方が現れたのでマリクは思わず笑いながら言った。
「お前達兄弟は、似ていないようでよく似ているな」
「そうでもないです」出迎え方が悪かったのか、ヒューバートはむっつりとした顔のままでマリクの隣に立つ。川面を見ながらその頭の中で何を考えているのかは想像出来なかったが、あまりこちらから問う気にはなれず、マリクも黙ったままだった。
すると、ヒューバートが先に口を開いた。
「兄さんは、リチャード陛下を殺す気はないんだ、と思います」
橋の欄干に手をかけながら、川面をじっと眺めてヒューバートはひとりごちるように言う。
「けれどぼくは、兄さんが殺されるくらいなら、リチャード陛下を殺す理由には十分で、当たり前のことだと思います」
それが、一帯どういう意味なのかをマリクは少し考えた。この年下の青年になりかけの少年は、複雑な感情や立場が一人の中に同居しすぎて、時折正体がマリクにすらよく見えなくなる時があるからだ。あるいは、エステアの懸念はそこなのか、と思った。
「それは、弟としての感情なのか」
「半分は、そうかもしれません」
やはり、そういう答え方をしてきた。本人もおそらくわかっていないのだろう。眼鏡のブリッジをくいとあげながら、ヒューバートは相変わらずこちらを見ようともしない。
「敵は、殺すものです。命を脅かすもの、敵対するもの、そういうものは殺すしかありません」
今度は、挑むように言う。
「だから、貴方たちフェンデル人も、殺すものでした。敵という名で、殺すべきものとしてずっとぼくは見ていた。それは兄さんがどうとか、そういうことではないのです」
明らかにそれはマリクを意識した言葉だ。が、顔は相変わらずだ。
「フェンデル人は執拗で、俗悪で、残虐で、恋人ではなく銃を抱いて眠る。恐れはなく、ただただ研ぎ澄まされた殺戮本能が全てで、命と言う概念はそこにはない。三日に一度は血で肉を煮たソースでパンを食べる、食料はそれだけ。だから常に飢えている。捕虜にとられたら最後、生きたまま刻まれて血を抜き取られ、内臓は塩漬けだ」
そこまでを、一気に吐き出してから、ヒューバートは漸く顔を向けた。いつもの、自分以外には味方はないのだと年齢に不相応な虚勢の顔だ。皮肉げに唇を歪めて、笑う。
「士官学校で習ったんですよ」
「それはまた、随分とご立派な」
「人の心は弱い。そうしなければ、殺し合いなんて出来ないんです。相手を人だとか自分と同じだ、という認識では殺し合いなんて出来ない」
そうでしょう。暗に確かめるような言い方で、ヒューバートはじっとマリクを見上げていた。
「そういうことは実戦に出て肌で知りました。実戦と言ってもぼくの配属は後方部隊。友人や部下たちがどんどん死ぬ様を眺める、お気楽な大将役です」
少尉以上を約束された貴族嫡男などには当たり前のことである。まして、オズウェル家となれば軍部とて蔑ろには出来ない。が、かといって家名だけで地位を得られるほどにストラタ軍というところは緩みきってはいない。実年齢に不相応な地位を得ているヒューバートという青年は、恐らく幾つかの戦功とオズウェル家の名双方を巧みに使うことで今の地位にいる、少なくとも本人はそれを信じているしマリクも余計なことを言うつもりはなかった。
「死なせるわけにはいかない」将校を実戦投入までして戦功を得なければ昇進はままならない。そういうストラタの気質は、どこかフェンデルに近いようにも思えた。
「そこに許すとか救うなんていうご大層な感覚なんて、あるわけないんです。そんな事を考えた次の瞬間、弾丸が頭をぶち抜いていたら、感傷なんてものはどんなに無意味か理解しなくちゃならない。そしてぼくは兄さんとは違うから、そういう感覚を特に抵抗なく培いました」
彼は、少し感情が交じると口早になる。アスベルは逆に口が重くなるのだが、弟はどうやらそこは逆らしく、らしからぬ勢いで言葉を重ねつづけていた。
「甘さも感傷も、戦場で生きるには必要は、ありませんでした」
吐き捨てる調子もいつものものであるのに、不思議とその表情が不安そうに見えて、マリクは一言「そうか」とだけ答えると、ヒューバートは俯いてしまった。俯き、唇を噛み締めてから、ため息を吐いた。
「ぼくはオズウェル家に行くことで、自由と場所を得た。今はそう思います」
再びその視線は川面に戻ってしまう。さらさらとした静かな水の流れの音に、その声が溶け込んで行くようだった。
「あそこで必要だったものは、戦場でも必要でした。義父は決して立派な軍人ではありませんが、生き方はとてもそれに近い。悪人と罵られようと、オズウェル家を守り続けるには必要だった立ち回りが、結局人の目には悪党と映るというだけのことなのです」
確かに、そういう言い方も出来る気がする。あのオズウェルという男は、決して愚鈍でもないし認めるべきところもないわけではない。ヒューバートは悪党という言い方をするが、それすらどこか義父を彼なりに認め褒めているようにも聞こえるのだ。
「そして、戦争というものは人を善悪の概念から解き放つものです。そこにあるのは、ただの、殺し合い」
殺し合い。ヒューバートはそう断じた。確かに、彼はそうした世界に幼い頃に放り出されてここまで来てしまった。色々なものを持て余しながらもどこかで何かを騙しながら、そうして生きて来ていた。
「お前は、そうして」
生きてきたのか。言葉をマリクが飲み込んだと同時に、ヒューバートの双眸がすっと細められる。僅かにだが、微笑っているように見えた。