音がなかった。たったそれだけのことで、そこに輪郭などはなくて、すべてが混在していて、ゆるやかに結合していて、ぽっかりと真っ白な虚無を作り出していて何も認めることが出来ない。
この部屋は、まるで虚のようだった。重たい鉄製の扉を開く、ザヴェートを訪れれば繰り返した行動が、何故か重たい意味を持っていたように感じる。それは、この先にあるものが思わせるのだろうか。
「原素熱が、もう、いよいよ、駄目みたい。ごめんね、あたしもお姉ちゃんも助けたかったの。でもね、ごめんね、駄目だった。ごめんね」
いつも以上に不明瞭で、いつも以上に無軌道なパスカルの言葉に、けれどいつもの勢いも明るさも全くなかった。元々、ヒューバートがあえて首都ザヴェートを訪れる理由などは多くはない。だから、彼女からそういう事を告げられる覚悟はどこかにあったのだ。
けれども一瞬思考が真っ白になり停止した。往々にして、自分は想定外の事に弱いのだ。
ストラタの名を常に意識せねばならない立場のヒューバートは、フェンデル滞在中はたいがいアンマルチアの里かスニーク研究所に拠っていた。互いに協力するという名目が存在していても、かつて抱いていた感情を簡単に捨てられるほどに二つの国の関係は単純ではなかった。だがストラタの名の元派遣されている身であれば、フェンデル政府塔を訪れない日はほぼなかった。
嗚咽がすぎてろくに喋ることもできなくなったパスカルをフーリエは宥めて抱き寄せた。姉妹は、彼女らなりに同志としてのマリクを敬愛していたし、かけがえのない存在としていた。それは、ヒューバートも同じことだ。「彼はずっと、貴方の名前をうわごとのように呟いてばかりだったのよ。お願い」強い視線でフーリエは言った。看取るのはあなたの仕事でしょう。強気な金色の瞳が揺れていたから、ヒューバートは無言で頷き鉄の扉に手をかけるしかなかった。
軽く重ねた指先はとても細く、まるで枯れた枝のようで、硬く乾いていた。この指、この手のひらを一体どれほどに愛おしいと思っただろう。大きなてのひらに触れられることが、どれ程嬉しかっただろうか。
触れた箇所から控えめに伝わってくるものは同じだ。もうすぐ失われてしまうであろう、けれど今はまだそこにあるもの。少し握る力を込めれば折れてしまうかもしれない、老人の手。
けれど愛おしい。以前ほど強烈ではなく、以前ほど刹那的ではなく、以前よりも随分とぼやけてしまった――けれどもその分ずっと優しくなった感情を、ヒューバートは愛なのだと認めていた。結局、ずっとこの男だけを愛していた。愛という感情を理解するのにあまりにも時間がかかりすぎて、結局その言葉の意味を伝えることすら出来ていなかったかもしれない。この男の背中をずっと追い続けて、触れようと手を伸ばして、掴もうと必死になって、抱き寄せようとして、けれども得たという確証を覚えることはなかった。
愛していると叫んだらば、伝わっただろうか。
愛していると言えば、この男は背を向けなかっただろうか。
否。経験と信条からくる明確な否定が脳裏には刻まれ続けていたままだった。
今際の時、最後の瞬間に立ち入ることを許してくれたこの男は、誰よりも臆病で誰よりも怖がりだった。そういう臆病さを長年抱えて生きてきていた。だから、強引に全てを暴こうとした瞬間姿を消しただろう、と、思う。例え自分が全てをさらけ出したとて、相手が応じてはくれなかったのだ。それを罵ろう、とは、未だに思うことは出来ないでいる。
けれどひとつだけ、全てを得ることは出来なかったし、彼の心の中に一体自分はどれ程入り込めたのだろうかとは思った。彼の心の中の大部分を占めるものをヒューバートは知ってはいたが、その事を彼に問いただすことは結局しなかった。出来なかったのだ。所詮自分も臆病者なのだ。
すると、彼を臆病と繰り返し言う資格も本当はないのだ。それでも、一度感じた感覚と感情を、ヒューバートは何故か否定できなかった。感情を殺すことなど慣れていたのに、それが出来なかった。だからそれ以上を求めてはいけないのだとどこかで自制し続けていたかもしれない。
お互いの臆病さから来るひどく不器用な関係だった。それでも、今、自分はここにいる。こうして、まだ温かい手のひらに、触れることが出来る。
「ヒューバート」
からからに干からびた喉からようやく搾り出された、荒い呼気と綯い交ぜの、かつて記憶していたものとは大幅に違う、それでも過去の名残を留めている声が、名を呼んでいた。
その、とても最も聞きなれた単語を耳が捉えた瞬間に、つんと痛む鼻の奥と、直接鷲掴みにされたのではないかというほどに痛む心臓。それでも、そういうものに対して随分と慣れてしまったヒューバートは、動じることもなく柔らかい笑みを作ることも、出来た。反射的に指先を強く握ってしまうこともなかった。
これから死に行くというのなら、せめて、笑顔で見送りたい。彼は旧友に託された願いに生きた男なのだ。そういう自覚だけがあればいいのだ。余計な未練などは、必要はない。だから自分は、一番未練を残さないやり方をしなければならない。そういう覚悟を決めて、ここに来た。
「…お前は、そこか」
探るような声。心細さが僅かにそこにあるようで、ヒューバートは身を乗り出して顔を近づけた。良く、見えるように。ここにいる、と、言葉で伝えるだけでは足りないと思った。
「はい。ぼくは、ここです」
見開かれているにも関わらず定まらない焦点、白く濁りかけている眼球、すっかりと落ち窪んでしまった眼窩、すっかりとやつれた顔。何時の間に、こんな風になってしまったのだろう。考えながら指先を握るてのひらにほんの僅かに力を込めただけで、その表情がわずかにゆらぐ。苦痛を訴えているようにも見えた。以前ならばそこで反射的に指を離していたかもしれなかった。
「ぼくは、ここにいます。何も」
少し、強い口調になっていた。強い言葉などは言えないし、静かに死の淵に立ち深淵を覗いている人間に現世の人間の言葉がどれほど届くかも、わからない。人の死に目に遭うことは少なくはなかった。そういう時は結局、自然と浮かんできた言葉を率直に露にするしかない。そういう言葉しか届かない。
「何も、することは、できませんが」
「ああ、構わんさ」
ヒューバートが緩く握った指先が、わずかに動いた。血の気の失せた唇がふるえて、空気の塊が吐き出される。何かを言いたげに言葉を捜しているようにも見えた。言葉一つ語るでも、随分と難儀するようになった――そう本人が言っていたのは、数ヶ月前だった。
「…随分、声が変わったな」
ふいに緩く握っていたはずの指先が動き、逆に予想外の力で手を捕らえられる。少しだけ目を見開いて驚きを返せば、マリクの瞼が落とされ、表情は苦々しいものに変じた。
握られた右手は痛いほどだったが、ヒューバートに出来ることは有態の言葉を返すことかその手を握り返すことだけだ。ヒューバートは、眉尻を下げながら後者を選んだ。そうして、なんでもないことだという風に装い「それぐらいの時間は、必要でした」、もう殆ど見えてはいないだろう見上げられている双眸に、呼気と同程度の声量で囁きかけた。
浅くゆるやかな呼吸の音だけが、ひどく静かに耳に届く。外は、雨が降っているようだった。せかされるように、指先を動かして、残り少ないその命の炎を包み込むように、もう一度手を握りなおしていた。
「…俺は、やはり死に急いでいた。そう面と向かって俺に言ったのは結局お前だけだったな」
再びゆったりと時間をかけて吐き出された重たい空気の塊は、死の匂いを明確に伴いながら暖房に暖められた部屋の空気に溶け込み、時間をかけて床に落ちていった。焦点の定まらない揺らぐ光が、このときだけヒューバートを正面から捉えていた。
彼の命がそう長くは持たない。それは、フェンデルの大紅蓮石特有の性質による影響からくる病に侵されたためだった。
大紅蓮石《フォルブランニル》――他二カ国の大輝石それと明らかに性質が異なるゆえか、単に原素の扱いが難しいというだけではなく、その原素そのものにも大いなる問題を秘めていたのだ。即ち、人体に悪影響を及ぼすのである。
五年ほど前、フーリエとパスカル姉妹により、他国よりは随分と少量ではあるが大輝石由来の原素を抽出が可能にはなった。少量であるとはいえこの奇跡的な出来事にフェンデル国内は大いに沸き立った。だが、その原素を取り出す際に発生する熱が、人体に悪影響を与える可能性があった――もっとも、随分早い段階でその可能性に気付いていたフーリエの努力の末、直接人体を蝕むことはなくなり、多くの研究者は変わらずにその研究を続け、フェンデルの民は細々とではあるが大紅蓮石からなる恩恵を受け続けている。
対外的に、さしたる問題はなかった。そういうことになっていた。
そもそも、『原素熱』により病魔に蝕まれる可能性は、非常に低かった。
影響があったとて、それがすぐさま命の危機につながる可能性も低かった。
第一、フェンデル政府はその事を認めたうえで、事業の継続を黙認した。共同研究の名目でセイブレ・イゾレより研究者を派遣しているストラタ政府も同様だ。
それでも極々一部の、不幸にも大紅蓮石由来の原素に身体を蝕まれてしまった技術者達に、フェンデル政府は多額の保証金を用意までしていた。当然、口封じ的な意味は多分に含まれていたし、フェンデルという独特の国風の民はそういった対応をとったオイゲン総統に感謝こそすれ反発などは覚えない。ストラタ技術者に関しては、更に額だけで言えば上乗せされていた。二国間の関係は、この十数年のうちそのように変化していたのだ。
何より、当の本人マリクはその事をあまりにもあっさりと受け入れていた――彼が彼の生涯の夢と定め歩んだその結果のひとつであること、そして彼が託されたあまりにも大きくあまりにも単純明確な『願い』は、既に彼の手を離れてフェンデルという国と共に歩み始めていたからである。
具体的に余命を告げられて微笑んだ人に、他人がどんな言葉をかけられよう。
運命だと自嘲するでもなく、ただ、自然微笑を浮かべ天を仰ぐ。パスカル、フーリエらと共に彼の仕事のほぼ全てを知るヒューバートには、その表情はとても安堵に近く満足げにも見えてしまった。彼の内側はそれですっかりと満たされていたのだ。以前のような取り残された表情をすることはなくなっていた――だから、外側の人間である自分に、言うべき語るべき言葉などはない。
そのことを、寂しい、というようにヒューバートは考えなかった。そういうものなのだし、この人とは結局、そういう関係で良かった。少なくとも、自分は辛うじてその内側に、心の襞の一部分ではあっても触れることを許されたのだから。過去の自分の行いを悔いないようにするには、そう考えるしかなかった。悔いたくも、なかった。
「この、音は……雨、か?」
外を伺うように、すっかりと血の気を失った面と色素の抜けてしまった髪が揺れ動いた。空気の揺らぎと共にそれを認めたヒューバートは何度か瞬きをしながら、無意識にもう片方の手のひらも重ていた。
その目は既に光を失い、耳も音を拾うのに難儀する筈だった。この声とてどれ程彼の果てかけている聴覚が拾ってくれているのかはわからない。そして何よりも、最期の瞬間まで、この人の体温を知っていたかった。忘れないために、記憶するために、この人が確かに生きていたのだという痕跡を、自分の中にせめて明確に留めておくために。
「はい、けれど何故」
「フェンデルで雨は、珍しい……この音は、石と鉄の壁を、こう、…水がな、流れてゆく音が、珍しいのさ」
ウィンドルじゃあ当たり前のような音だがな。そう言い、マリクは微笑んだようだった。こうしていても、部屋を暖める暖房の音の方がよく聞こえる。そういう事を表情で訴えていたのか、マリクの笑みはよりはっきりしたものとなった。
ザヴェートで雨が降るということは滅多にない。本当に短い夏の時期だけ降ることも在るが、年単位で珍しいものだ。そういうことを、ザヴェートという場所に何年か滞在することでヒューバートは知った。ストラタとは違う意味で水資源が非常に貴重であるということも、この土地に根付く人々の強かさも、生き方も。そのフェンデルという国が育んだこの男をひたすら愛することで知った多くの事は、しっかり自分の中に根付いている。かつて、ただ仮想敵国と見なしていた頃とは違う。ウィンドル王国を執拗に狙う外敵とだけ認識していた頃とも違う。
静かだった。この、政府塔内にあるマリクの執務室に併設されている私室は地上の喧騒や音は届かぬほど高い場所にあり、聞こえてくる音などはせいぜい窓を叩く風の音くらいだろう。ここは、常に風の音が絶えない場所なのだ、ということをヒューバートは知っている。
余計なものなどは一切存在しないこの部屋の壁――ザヴェートの灰色の空がよく見える場所に、色あせた写真が飾られている。日付は三十年以上前のもので、そこに写り込んだ若い男女の事を、マリクは一度も語ったことはない。ヒューバートもあえて聞くような真似はしなかった。一人は若い頃のマリク、そして志半ばでこの世を去ったカーツ。三番目の女性、彼女がロベリアという名であることも、彼女が三人の中でどういう存在であったかも、ヒューバートは間接的に聞き及んだこと以上を知る必要はないと思っていた。
この色あせた写真の中に自分の存在はないし、入り込めるわけはない。そう考えてしまう自分が、かつてはマリクを臆病だなどと罵ったこともある。ひどく傲慢で、物事を知らない若者らしい言葉だった。けれども言葉を撤回しようとも思わない。もう、十年以上前の話だった。
「ヒューバート」
「何ですか。もう、喋らない方が」
「すまなかった…感謝、している」
もう、既に明瞭な言葉ではなかった。ぼそぼそと吐き出す息と一緒に漸く喋るという風な、重い声。
ひたと見つめてくる瞳が、ぎょっとするほどに澄んでいた。ああ、この人は死ぬんだ。何の前触れもなく感じて、ヒューバートは返す言葉をすっかり失った。両手で握った手のひらは、まだ、温かい。
「お前と出会えて、俺は、……ようやく、一人前の人間になれたのかも、しれん」
「それは、ぼくに言う言葉ではありません、兄さんが」
「いや、お前だ」
数ヶ月ぶりの有無を言わせぬ語気が一瞬、戻っていた。だからヒューバートはようやくひねり出した、続く言葉を飲み込んだ。口は半開きのまま続く言葉を吐き出せなかった。
マリクの顔は、しっかりとこちらに向けられている。けれどもその焦点はひどく、遠い。視線が自分を通り、そして突き抜けている感覚があった。自分を見ている、けれども、彼が見ているのは今のヒューバートではないような気もする。感情が大きく揺らいでしまい、ヒューバートは表情を動かさないように必死になっていた、こんな感覚はとても久しぶりで、苦しいとさえ思っていた。
「こうして、死にかけている俺の手を、まだ離したくないという、…お前だ、ヒューバート」
以前ほど言葉に感情はなく、声に抑揚もない。けれど、ヒューバートは初めてこのマリクという男からここまでの言葉をかけられた、と思った。意識せずに気を引くような言葉を言う、そういう男が真剣に自分の中にある感情と向き合い、そして出したものだと感じた。言葉は、そこに込められたあらゆる感情が向かう先が、自分以外他にない。背筋をわけもわからぬ感情が走り抜けて、明確な痛みに苛まれる意識を誤魔化すように。ヒューバートは唇を強く噛んだ。
「…変わらないな、お前は。ここ数年、まるで別人になったと、思っていたが…」
「ぼくは、変わったつもりは、ありません。あなたも同じことです、マリク、教官」
まるで他人の声のようだ。とても遠くて、自分ではない見知らぬ誰かが、自分の中からその意識をそっくりと抜き出して、自分が想定していない言葉で表現されたような違和感がある。気分が優れなかった。けれども、目の前の人から視線を逸らすことはそれ以上に苦しいことだったから俯くことは辛うじて堪えていた。両手で包み込んだかさついたてのひらが、まるで身じろぎするかのように小さく動いてみせる。だから、抱き締めるようにもう一度手のひらを組み替えて包み込んだ。するとマリクは漸く安堵したような表情をうっすらと浮かべ、今ここにいるヒューバートを見た。
「温かいな……お前の、手は…」
声が虚空に入ってしまうように、消えてゆく。最後に、ことさらゆったりと息をつき、身体を寝台に沈めるように、マリクは瞼をおとしてゆく。
「何を言うんですか。あなたの」
ゆったりと、まるで静かに眠りに付くように瞼が閉ざされた。片手を、ヒューバートは両手で握ったままだ。ふと、何かが、抜けてゆくような気がした。
「……あなたの手のほうが、余程、温かいじゃないですか……」
言葉は、とぎれなかっただろうか。
声が、不自然に震えてはいなかっただろうか。
きちんと、笑えていただろうか。
否、きっと、この人はわかっている。わかっていて、ぼくの拙い演技をしょうがないなという顔で笑っているのだ。
きっと、そうだ。頬回りの筋肉をことさら意識しながら、ヒューバートは抜け殻になってしまった皮と骨だけの指先を強く、握った。
もう、その安らかな表情は動くことはない。応じて指先を動かすこともない。けれど、手を離す気にはなれなかった。目を閉じてしまうと目の前の死を認めてしまうようで、瞼も落とせない。じわりと滲んだ熱いものが、重力に倣い頬を伝って落ちていることに気付いていた。けれどだからといって何が出来るのだろう。何をすればいいのだろう。目の前で、もう、二度と、何も言わなくなったひとを相手に。一体、何を。
「あなたは知らなかったかもしれない、けれど、ぼくは……。あなたの手はとても、温かくて」
わかっていたことだった。
覚悟していたことだった。だから決して泣くまい。そう決めてきた。パスカルが涙ながらに現状を語ったときも、気丈なフーリエが珍しく俯いていても、ヒューバートは決して泣かなかった。そういうものだと昔から、覚悟をしていましたから。言いながらなんとも欺瞞に聞こえる己の言葉に自嘲しながら、けれど泣くことはなかった。
「あなたの手は、とても、……大きくて、温かかった」
誰に、何を、伝えたかったのか。何を、何処に、言っているのだろうか。混ざりだしたあらゆる感情が、はけ口を求めていた。そこにはもう既にないものを求めるように、もう一度、ヒューバートは両手で包み込んだそれをきつく、きつく握り締めようとした。
「温かかったんです、だからぼくは、…あなたの側を、離れ…」
けれど、力を込める前にするりと何の抵抗もなく抜け落ちていった手のひらがくたりと落ちた。同じ早さで毛布の上に落ちた水滴は、自分の流した涙だった。溢れた感情が、抑えこもうという理性を押しのけて表に出てきた。泣いても良い、遠くからそういう声が、誰のものかわからない声が聞こえた気がした。
それでもヒューバートは唇を強く噛んで堪えた。力の抜けた躯の手のひらには触れることなく、ただ、堪えた。瞼を閉じた。
きつくきつく、眉根に力を込めて視界を閉ざした。
認めなければ、ぼくが、誰でもないぼくが認めなければ、でなければ、きっとこの人を呼び戻してしまう――それは、出来ない。彼は、納得して逝ったのだ、引き戻してはいけないのだ。まして、カーツやロベリアではない自分が、戻してはいけない。彼らとの再会を何よりも望んでいたマリクを、呼び戻してはいけないのだ。だから。
嗚咽を堪えることには慣れていた。
感情を殺すことにも、慣れていた。
静かな雨の音を、探した。部屋を暖める暖房の音が響く、それを遮るような静かな音を探した。そうすればきっと、この歪みきった輪郭のない世界は、日常と色を取り戻す。
けれど、どれほどの時を待っても、音は聞こえては来なかった。
故郷ラントで良く耳にしたせせらぎの音も、凶暴な風雪が窓を叩く音も、ここにはなにも、なかった。
ただ何もない静寂と白い虚無だけが、主を喪った部屋に横たわっているだけだった。
氷穴の中に埋葬を。そう望んだのは、共にフェンデルを再建させたパスカルだ。彼女もまた、マリクが最期まで秘め続けていた過去をうっすらとではあるが感じ取っていたのもあるし、その躯は大紅蓮石と共にあるべきといった認識は多くのフェンデル国民にとって共通認識だった。
灰色と白と鉄の呪縛から、結局彼は逃れられなかった。だがそれでいいのだと、彼は言ったような気がする。
新たなるフェンデルの歩みを定めた偉業を称えてか、当人の思惑とは裏腹にその葬儀は国葬という形をとられ、多くの参列者がその冥福を深く祈った。既に総統の地位を別の人間に譲ったオイゲンもまた、老いた身体を引きずりながら祈りと言葉を用意した。兄アスベルとも久しぶりに顔を合わせた。兄は沈鬱な顔をしていたし、多分自分も同じだったと思う。ウィンドル国王の代理でもある彼は、そういう理由からではなくひどく言葉少なだった。そしてリチャードの名で花を捧げた。
アスベルのすぐ側に佇むソフィは、必死に言葉を探そうとしてけれど適わず、ぽろぽろと涙を零すばかりで、ヒューバートが頭を撫で抱き寄せてやると、いっそう涙を流すばかりだった。シェリアが宥めるように声をかけなければ、多分ずっとそうして彼女は泣いていただろう。シェリアだけは、それでも静かな笑顔を作ろうと必死になっていたようだった。あの人は私に笑うように言ったのよ。以前よりも落ち着いた声は、けれどもやはり震えていた。
ヒューバートは、そのままストラタの代表として型通りの冥福を祈り、白い花を捧げた。
心の在りようなどは、振り返りようもなかった。そして数ヶ月を経て、漸く彼が眠るこの氷穴を訪れることが出来たのだ。
そこには、冷気に晒されそのまま凍結した白い花が、そのまま残っている。パスカルの仕業かもしれない。悲しみにくれていても彼女はそういう事をする人間で、そういう彼女の性格をマリクは良くからかいつつも同胞として、仲間として彼女を愛していたのだ。
「マリク教官。ぼくは戻ります」
多くの言葉を用意してきていたつもりが、実際に言葉に出来たのはそれだけだった。フェンデル政府がストラタ技術者に対してよい顔をしていなかったことをヒューバートは知っていたし、マリクの存在がそれらを表面化させなかった、ということも身に染みていた。確かにフェンデルは以前よりも他国に対して積極的に敵対行動をとらなくはなっていたが、それは国情が安定しないということと、大きくは国の大事業である大紅蓮石関連開発責任者マリク・シザースの存在だった。それでもアンマルチア族の後ろ盾があれば、暫くの滞在は可能かもしれない。だが、今やストラタ技術者の協力は必須という段階ではなく、ストラタ政府から一度帰還せよとの達しも何度かあった。そしてヒューバート自身これ以上この国に滞在する気がなかったのだ。
失って初めてわかる大きな喪失。その穴を埋めるために――或いは、その空洞を抱えて生きてゆくには、想い出が残る場所というのはあまりにも感傷を呼び起こしすぎる。マリクがこの国を出た理由をヒューバートは否定したが、いざ自分がそうなってみると、痛いほど身に染みる。何故自分はあのような傲慢なことを平気で口に出来たのだろう。
後悔などは、し尽くしたというのに。
「……カーツさんと彼女に、宜しく。また、会いに来ます」
氷穴を抜けると、冷たい空気に頬を叩かれる。永久凍土に在るこの遺跡は、決して溶けることのない氷と共に長いときを経ているこの場所は変わらぬ佇まいだ。変わらない、変化を望まなかったかつてのフェンデルの名残その中に、変革を強く望みその為に人生の最後をかけた男が眠っている。
それは皮肉ではない。変革を望んだ多くのフェンデル人の心そのものなのだ。はっきりと輪郭を伴った風雪が冷気の粉を舞い上げる。重たい雲間から幽かに光を届ける太陽に、きらきらと輝く無数の氷の破片。冷たく無慈悲な風。
この場所にはフェンデルという国が太古より奏でる音があった。吹き付けてくる風があった。人の侵入を拒む雪があった。
ここは、守られている場所なのだ。だからカーツはロベリアを埋葬し、マリクはカーツを弔った。何れも大紅蓮石に携わらんという志の在った人間だ。ここはそういう場所なのだというアンマルチア族長ポアソンの言葉は、多分、真実だ。
再びこの氷穴を訪れよう。
その時、このフェンデルという国はどのようにストラタ人の自分を受け入れるか。或いは、訪れることが出来るのだろうか。そういう事を考えた。