「ヒューバートの話なら、特別料金を貰うわよ」
くすっ、とストラタ人らしい風貌にいたずらっぽ笑みでマーレンはアスベルを覗き込む。理知的で黒い瞳が、きらきら輝いている。昔のあいつに少し似ているな。自分の知識を自慢する時だ。七年前の懐かしい面影を少しだけ思い出してから、アスベルは慌てて「それ」をかき消した。
「あ、いや……そういう風に見えたかな」
「見えたも何も」
呆れるように笑って小さく肩を竦めてみせる様が、この少女と女性の中間地点にいるようなマーレンには良く似合っていた。快活で、浅黒い肌も魅力的に見える。だから、彼女がヒューバートと知り合いだ、と聞いたときは少し驚いたものだった。二人のやりとりが驚くほどに違和感のないものであったことも含めて、それらは自分の知らない弟の断片を知った驚き、ともいえる。
くつくつと喉奥で笑うマーレンは、とても愉しそうだ。だから、自分自身の感情はさておき、アスベルは彼女にとって彼女と弟との思い出は楽しいものに違いない、という確信を持った。が――反面、自分は他人の目にそう見えていたとかと思うと、どこか面映い。シェリアやマリク、パスカルといった仲間達に言われるのは致し方ない気がするのだが。
「…そんな風にしてたのか?」
「知ってる?あなたたち兄弟、とても良く似てるのよ」
きらきらと輝く瞳までが笑っているようなその笑顔は、この灼熱の砂漠の中に息づく人間の強かさも垣間見せる。そして、自分の知らない弟の七年を知ることの後ろめたさを、その、とてもしなやかな彼女の笑みはいとも簡単に払拭してくれる。そうなのか?と質問を重ねると、彼女はころころと子供がはしゃぐように笑った。
「そうね、あなたが持ってきてくれるコンポートの味に免じて、特別ただで昔話をきかせてあげるわ」
そこで、彼女は漸く手を止めた。瞼が薄く伏せられて、浅黒い指先が道具の一つ一つを慈しむようにそうっと撫でてから、まるで興味を失ったかのように離れる。その瞬間をじっと見てしまったことを、アスベルは少しだけ後悔した。
彼女の指先の繊細な動きに含まれる感情を理解したわけではないにせよ、なんとなくそこにある色が見えていないわけではない。アスベルも十八になる。こくり、と僅かに唾を飲み下していた。
そこは暑いでしょう、とマーレンはアスベルを店の中に招き入れてくれた。大小さまざまな輝石、加工した金属片やヤスリや砥石が整然と並べられている。石や埃や金属の匂いが、圧倒的にこの狭い空間を支配しすぎているような気もした。チラとそれらを伺うアスベルに、マーレンはこれが私の仕事場なのよと言わんばかりに誇らしげな笑みを浮かべる。
喉滑り落ちてゆく滑らかな冷たさが心地よい。良く冷えた水は、ここユ・リベルテでは贅沢品だ。その事を弟からきつく言われていたことを思い出して、アスベルは軽く礼を言ってからガラス製の簡素なコップに手を伸ばす。ひんやりとした感触が、些か興奮気味の胸のうちを冷やしてくれるようだ。
「ヒューバート、…あいつ、俺の事を何か…言ってたのか?」
精一杯の溜息を吐くように言うアスベルに、マーレンはくるりと瞳を回して小さく笑った。
「自分からは何も言わなかったわ。でも、あんな肌の白い人はストラタには珍しいし、オズウェル氏の自慢の息子の話ともなればね」
アスベルは知らなかったことだが、オズウェル氏がラント領を狙っている事など、ユ・リベルテで生きていて知らない人間はいない。こと、ラント領主より実子を貰い受けたことをガリード・オズウェルは誇らしげに良く話したものだ。あれは私の息子なのだと、まるでそれがそれだけで手柄であるように吹聴している。
そういった一連の周知の事実ということを、生憎と何度かユ・リベルテを所用でのみ訪れるアスベルが認識する機会がなかった。
「ああ、そういうことか」
だがアスベルはそう応じた。マーレンの言葉の全ての意味を理解したわけではなかった。けれど、彼女の言わんとしたいことはなんとなく、わかったつもりだった。
「お兄さん。そうね、領主になることを棄てて騎士ってものを目指したんでしょう。私はもっと破天荒な人だと思っていたけど」
彼女はそれは楽しげにくすりと笑う。その笑い方は、けっして不快ではない。
「ちょっと違ったわね」
良く冷えた水を唇に含むマーレンは残念そうにも見えた。アスベルが怪訝そうに眉を寄せると、やはり、ちいさく彼女は笑う。こうしてなにげなく笑う彼女の笑みは、とても素敵だと思った。
「あ、悪気はないの」
「いや、わかってる。領主の座を捨てて騎士を目指した、なんて…他人の目にどう映ったか」
自虐的になった言葉を少しだけ後悔したが、アスベルは顔を俯けさせることはしなかった。後悔はまだあるが、迷う時期は過ぎていた。
「あら、私はそれはそれで素敵な選択だと思うけれどね」
「本当に?」
「それだけ揺ぎ無い何かを持っているっていうことだわ」
だから、アスベルの内心の結論じみたものを(偶然にも)肯定するようにこくりと頷く、この自分のなすべきことを知っている女性が、一瞬ではあるがとても眩いものに見えた。
「何でもいいんだ。あいつがどういう風に生活してたのか、とか、何を考えてたのか、とか…少しでも分かりそうなこと」
思わず反射的に視線をそらしたのは、どういう感情が自分の中で巡ったのか理解出来ないアスベルにとっては一種の自己防衛であるかもしれない。ここに来た当初の目的を思い出すことで、アスベルは自己の奇妙な内心のことを考えないようにした。
「直接聞けばいいのに」
当然のように言うきらきらと輝く黒の瞳は、また、悪戯めいた笑みを含んでいる。彼女はアスベルとヒューバートの微妙なやりとりを目の当たりにしているし、アスベルがわざわざここに来た理由も納得している。その上でアスベルを少しだけからかう気さくさと、大事な恩人でヒューバートの兄であるアスベルに対しての気兼ねのなさがこうした言葉の端々に現れているのだ。そういう簡単な距離の近さは、彼女の魅力だと、アスベルは彼女との少ないやりとりの中で感じていることだった。
だから、弟は彼女と友人になれた(というと本人は否定するだろが)のかもしれない。
「俺は…俺が話をしても、あいつは決まって言葉を濁すし、…嫌な思い出があるわけじゃないのは、なんとなくわかるんだけど」
思わず後頭部を掻くような仕草をすると、マーレンは再び眼差しを落とし、小さく「そうね」と応じた。その様子は、少し今までの彼女とは違って見えた。
「ヒューバートにしてみたら、士官学校にいる間だけは、自分のしたことだけを考えられる時間だったのかもしれないわね」
ストラタ人の黒曜石の瞳が、一瞬にして探るような眼差しを遠くに向ける。今ではない、この場所ですらないどこかへ。
「学校の教官たちは、私の輝術は戦争にも研究にも役に立たないってことを散々私に教えてくれたわ」
再び視線を戻し、頷く彼女の言葉は強い意志のようなものを秘めている。それはとても揺ぎ無くて、アスベルにとって彼女が眩く映る瞬間の理由は、そういうところにあるのだろうと思った。褐色の清清しい肌とか、悪戯っ子のような光を秘めている瞳とかは、あくまでも彼女という女性の一側面でしかないのだ。
「私の輝術は、輝石の力を増やしたり引き出すことしか出来なかった。勿論、治癒術や攻撃術なんて無理。だから、私はいつだって落第ばかりの落ちこぼれ」
流れるような彼女の声は、どこか楽しげに聞こえた。言葉通りならば決して楽ではなかった過去をそんな風に語る。いつか自分もそうなれたらという余計な思考がわずかに入り込んで、アスベルは慌ててマーレンの言葉に意識を傾けた。
「漸く入った士官学校で酷い成績だった時は、それでもきっと、そう思って耐えた。意地とかそういうもので卒業は出来たけれど、その頃には私はすっかり悩んでいた。それでも、士官として戦場に向かえばこんな悩みを誰かと分かち合う、なんてことは考えられなかったし」
大分砕けた様子で、卓上に肩肘をつき顎を支えながら彼女は笑う。それでも、時折混じる自嘲の笑みや溜息が、彼女がどのように士官学校に入学し、どのような思いを抱き、悩んでいたかということを良く示してはいたけれど、だからといって窺い知る材料のないアスベルには漠然としか認識できない。
それでも、なんとなくではあるが言葉にならない言葉の中に在る重さにアスベルは何故か共感していた。理屈では説明できなかった。ただ、境遇と現実と理想の狭間の中で彼女がもがき苦しんでいたであろうという事が、ひどくはっきり認識できるのだ。
それは、彼女の言葉の、表情の、声色の、或いは仕草ひとつひとつからひしひしと伝わってくる。
「そんな時ね、私には無縁だと思っていたオズウェル家御曹司が、どういうことか私を突然面罵してきたのよ」
信じられないでしょう?付け加え肩をすくめてみせるマーレンの表情が輝いて、声が踊っている。今までで一番楽しげな表情だ。アスベルは完全に面食らってしまった。
「役立たずはいりません。仏頂面でそう言って、如何に私が訓練で全体に良くない影響を与えているかをとってもわかり易い言葉で説明してくれたわ」
「はは、あいつならそんなこと、言いそうだ」
思わずアスベルは笑ってしまう。マーレンも肯定するように、そうでしょう、と言い楽しげに笑う。
「あなたの才能はここにいたところで役に立ちません。けれど、あなたのセンスはここ以外の場所で役に立たないわけではない……ひどい言い草、ってその時は思って、本当に悔しくて泣きそうだったところに、立て続けにそんな事言うの。信じられる?私よりも年下で、オズウェル家御曹司で、ガリード氏の自慢の息子が、この私に、そんなこと」
あぁ、とアスベルは唐突に納得した。そして次に、弟らしい励まし方だ、と思う。自ずと頬が緩み、いつの間にか笑みを作っていたようだ。マーレンの表情が一瞬だけ変わり、楽しげな表情のままに彼女は肯首した。
「信じられなかった、だって、ヒューバートはわざわざ私に向かって、この道具一式をつきつけてきて、当たり前みたいな顔をして私を見ているの」
「あいつ、意外と人を良く見ているからな」
「本当にね。びっくりしたわ。なのに私ときたら、なんで、とも、ありがとう、とも、その時は私は言えなかった。なぁんにも、いえなかったの。馬鹿よね。自分が置かれている状況がどれだけ幸福なことかとか、そういうことを、あのときの私に考えている余裕なんてなかったのね」
再び伏せられた目線の先、彼女の繊細な指先は愛用の道具に触れ、慈しむ眼差しが鉄と木とわずかの輝石により作られた道具へと向かう。それは大事な家族であり唯一の恋人であるのだと言わんばかりの、このユ・リベルテ一の技術を持つ若き職人は、まるで恋をしている乙女のようだ。きっと、シェリアがこの場にいたのならそう言いながらマーレンに話をもっと、とせがむかもしれない。けれどアスベルは、それをただ恋愛という言葉で表してよいものか迷っていた。そもそも、アスベル自身がそういった感情には疎い。そして彼女の感情の向かう先にあの弟が、ヒューバートがいるとなると尚更その感情も理解とは程遠い場所に位置してしまう。
「……軍を辞める時に聞いた話だと、ヒューバートはわざわざ私を同じ部隊に編入するように口添えしてくれていたみたいでね。そんな真意は私は知らなくて」
流麗な言葉が、一瞬、止まった。空気が少しだけ震えている、アスベルは肌でそう感じていた。やがて決意したように彼女はきゅっと薄い唇を結び、正面からアスベルの双眸を見つめてきた。印象的な瞳が、何かの覚悟を決めた揺らめきを露わにしている。
「私の感情だって行き場はもうなくなってて、けれど私は、もうその時点では選んでいたのよ。自分の夢も、他の事も」
「あぁ……」
なんとも間抜けな声だったが、けれど、アスベルは何かを言わなければその場を取り繕えないような気がしていた。すると、マーレンは自然に笑ってみせる。彼女のその当たり前のような笑顔がやはり眩しくて、今度はアスベルが視線を少し伏せる番だった。
「ヒューバートがいなければ、私はまだ最初に夢想していた非現実的な夢に縋っていたかもしれない。自分の生き方に気付けたかったかもしれない。そういう可能性を、自分でつぶしちゃっていたかもしれない……少なくとも、今の私は今ここに存在していなかったわ」
それは、彼女の誇りなのだろう。形良く結ばれた唇には、くるりときらめき輝く黒い瞳には、誇らしげな笑みが浮かんでいるのだから。その強さは、きっと彼女が一人で培ってきただけではない。観念したように――そして、どこか満足げに、アスベルもまた微笑んで「適わないな」と一言呟くと、マーレンははじかれたように笑い出す。軽快な彼女の笑い声はひどく心地よかった。
マーレンの店を出て、仲間達とすぐ合流する気にもなれず(そもそもパスカルあたりはどこにいるのかすら定かではない)、ぼんやりと噴水の縁に腰をかけた。背中に僅かにあたる飛沫が心地よい、などとぼんやりとしていると、ひどく聴きなれた足音が近づいてくる。それが目の前に到達する前に、アスベルは腰を上げた。
「兄さん、用事は済んだのですか」
「あ、……ああ、お前もいいのか」
ヒューバートは頷くだけで、言葉を返さなかった。その反応が少し珍しいな、と思いながら石畳を足早に歩く弟の背に追いつくと、ほぼ並んだ肩が少し下がる。
「彼女は、甘いものは好きですが兄さんほど極端な甘党ではありません」
突然何を言うのか、と弟の横顔を思わずまじまじと見つめてしまう。歩調が少し緩み、するとヒューバートは当たり前のように兄の歩調に合わせて速度を落とした。
「友人でした。いえ、友人、という言葉が正しいのかどうか、……ぼくにはわかりません」
弟の聞きなれない声色と、やはり珍しくどこか焦りのような、うろたえたかのような感情の垣間見える様に、アスベルはすっかり往来の真ん中に立ち止まってしまう。言葉の狭間にある逡巡の色が、なぜだかとてもはっきり、見えたのだ。
「けれど、お前」
「シェリアがいましたから」
「あぁ………」
まっすぐ、まるでストラタの大輝石のような深さを湛えた瞳が同じ色の双眸を見据えていた。かつてのヒューバートにはなかった、強くて何かに歯向かうかのような揺ぎ無い視線は、全てを語ることを最初からないと言っている。いわずともわかるだろう。そういう傲慢さがそこにあることを認めたとたん、こみ上げてきたゆるい感情にほだされ、アスベルは頬を緩めていた。
ヒューバートの目尻がきつと上げられる。けれど、その様もなんだか可笑しい。
「兄さん?」
一体何なのだ、と言いたい時の声色だと思った。とたん、アスベルはこらえきれずに噴出してしまう。柳眉がみるみる寄せられて、つるりとした額に寄る。きっと、今俺が考えていることを言ったらこいつは往来ってことを忘れて怒り出すかもしれないな。その、自分の想像した弟の様子があまりにも可笑しくて、当のヒューバートが憤慨に鼻を鳴らしたにも関わらず、アスベルは軽い笑いを収める事はなかった。
なぜ、わざわざあんな場所まで行こうなどといいだしたのか。さも面倒なのだといわんばかりの態度で、冷たい言葉だったのか。すべてが一つの結論に至ると、それはあまりにも彼がストラタで覚えた彼らしい取り繕い方だなと思う。が、それを本人に言うのはきっと意地が悪い。
「いい加減にしてください、人の顔を見てそうも笑われると、腹が立ちます。一体何なんですか」
「言ったらきっとお前はもっと怒るからな」
「それが気持ち悪いと言ってるんです」
「ははっ、死ぬわけじゃないし別にいいだろ」
けれど少しだけ、このくらいならいいだろう。七年ぶりに覚えたちょっとした悪戯心から、アスベルは実に中途半端な事実を口にしてみせた。少しだけ色々な腹いせが入り混じってるな、と思ったが、面白いくらいに反応してみせる弟の横顔や決してアスベルの方を見ようともしない意地っぱりぶりが、その月日を少しだけ縮めてくれるような気がして、「もういいです」と言い放ちスタスタと先を行く弟の背中を見つめる心持がその分軽くなった気もする。
きっと本人は自覚しているのだろうし、だからこその態度なのだろうし、それを自分が知っている。ヒューバートはわかっていて、それを兄アスベルだから許している。それらを総合すると、ほんの僅かではあるけれども兄の特権なのだ。そのように納得してから、アスベルは大分先へ行く背中を追いかけることにした。