――お前に歯向かうもの即ち敵だ。敵、だ。敵は徹底して叩きのめすんだ。情など不要、そんなもの何の役にも立たんからな。
――お前が今までいた場所はあらゆる意味で腑抜けの巣窟だ、だがここは違う。砂漠に水を齎し自らの力で繁栄を勝ち取ったストラタ人は、そうじゃない。
――正義の意味ですらが違う。お前の持っている常識も世界も、ただのゴミ屑同然だ。
――何もかもが違うんだ。いいか、何もかもだ。
そうだ。これでよかったのだ。
心の中に在る不愉快なものも何年もしこりのように残っていたわだかまりを、あらゆる記憶の残滓を、徹底して廃することで全てが解決するというのなら、それ以上の僥倖はない。
たとえそれが「故郷」を一時とはいえ蹂躙し、「祖国」を裏切ることになろうとも、その先にあるあらゆる安寧を考えればさしたる犠牲ではない、所詮過去は過去と割り切れる、砂漠の中の蜃気楼のような街に息衝く自分自身と義父の教えに倣えば、と、ヒューバートは考えていた。
ラントという土地と名前は自分を捨てたものであるし、そもそも唐突に無慈悲にその名と場所から捨てられたのだから、ウィンドルという風と水と森が豊かな国は自分が属するべきではない場所のはずだ。
理性で何度も否定を繰り返さずとも、それは「事実」であるのだから。
吹く風にヒューバートは顔をあげる。七年ぶりであるのに、変わらない。
何も、かわらない。ただ当たり前のように吹くこの風を、七年ぶりにこの場所に立った自分は、ひどく心地よい、と思う。
当たり前のように肌を撫でてゆく風に違和感を感じない。
当たり前のように囁く音に、耳は馴染む。
風が作る見えない道筋も、流れも、あらゆるものが当然のように在る。その中に、当たり前のように立っている。
この風の営みはすべて、遥か記憶の彼方にバロニアの地に風の原素を得て国となりえたその時から今日まで、途方も無く長い時を経ても尚、何ら変わることは、ない。
理屈ではない。感情でもない――ただ、自然そう感じてしまう。
『守護風伯』は、王都バロニアより出る風の原素を存分に受け、人の営みを見守るようにゆったりと回っている――雨の日も、雪の日も…おそらくは、このラントの地が主を喪ったあの日でさえも。
前ラント領主、先のフェンデル軍急襲の最中、自ら前線に赴き果敢に戦いそして散った――アストン・ラント。もう一人の父と呼ぶべき男の名を、ヒューバートは脳裏で繰り返した。アストン・ラント。数年ぶりに思い出した名前だった。名を、呟くと音はすぐさま風の原素にまぎれ、空高く飛んでゆく。
「これは、報いだ」
風に、ヒューバートは囁いた。ラントという土地を吹き抜けてゆく風に、この地を征服したのは自分なのだ、と言うように、けれど力なく。
頭を振り、心を鎮めようとした。けれど、この地に入ってから沸々と湧き上がる鬱屈とした感情は、その色をそのままに、思うが侭にかつての裏切り者たちにぶつけろと囁き続ける。それは、正当な行為なのだと、繰り返す。
このぼくを捨てた男は、子を捨てたことの報いを受けてしかるべきで、あった。だから、結果的には問題はない。何の力もなく、当たり前のようにぼくを「弟」扱いして(かつて彼の後を常についていっていた、あのヒューバートそのままだと思っていたらしい、まったくおめでたいことに!)出来もしない理想ばかりを言う兄を叩きのめして追い出して、自分は漸くこの土地を全てを手に入れた。漸く、この、豊かで穏やかなラントという土地を、街を、手に入れたのだ。
政治上は何ら問題は無い。程なくしてウィンドルは「新国王」を抱くであろうし、その「新国王」がどのような野心を抱いていようともストラタに利するところさえあれば、それでよいのだ。両国の同盟が締結されたのは事実だ。その「新国王」が計画的な私怨・悪意による謀反を起こした結果玉座を勝ち取った人間であろうがなかろうが、ストラタ軍人オズウェル家の人間としては、仔細を知る必要は無い。
すれば、前領主がおろかにも前線に命を晒し結果果てたことは幸運である。必要以上の乱暴を、領民に働く必要がなかった。ひいては彼らに恐怖を与えなくとも良くなったからである。
ヒューバートは理由を繰り返した。何かに、言い訳をするように――この土地に一方的に別れを告げさせられた七年前と全く同じ佇まいで恵みを受け取る『守護風伯』に向けて、心の中で、言葉を繰り返した。
「………それでも、ぼくは、この土地を守る理由があります。必要が、あります。ただ理由なく、無力にも関わらず、感情だけで物事を言う、彼とは、違います」
さぁ、と冷たい風が頬を打つ。雨の前兆である。けれど、ヒューバートは『守護風伯』の下に立ち尽くしていた。重い音を立てて、風車は回る。時折鈍い音を立てて、けれども決して遅れることなく、正確に。
雨は、原素の恵みだ。このあまりにも豊穣な土地はいつだって雨も風も、緑も絶えることがない。なんと美しい場所だろう。
「この地は誰にも……誰にも、侵させない。フェンデル軍にも、王国騎士団にも、……誰にも」
きつと見上げる空は、いよいよ雨のしずくを落とさんと鈍い色を重ねている。だが、ヒューバートはじっと、ただ、回る風車を眺めていた。切々と、決して飽くことのない無言の対話をしているのだ、といわんばかりに。