[5] 執着、或いは繰り返す過去に囚われた鉄

 思えば、それは何処から始まっていたのかわからない夢だった。夢は過去に繋がる、現実感を失わせる方便と思い夢を追うことを止めた気になっていたが、結果としては夢と言う漠然とした見えないものを、追い続けていたのかもしれない。
 つまずいた所で気付かず、我武者羅に手を伸ばしていた。
 初めて手に入れた感覚にわけもわからず興奮した。そして、夢中になっていた、今更否定はしない、ああ、そうだ、俺は改革という大望を掲げその心の中に描いた己に都合が良いものを、理想だとか、信念とか、そういう言葉にしていた。きっかけは人から与えられ、それを己のものと錯覚し、何時しかそれは己の融合し、まるで最初から自分のものだったというような、ひどく心地よい一体感を与えてくれていた。
 けれどもその理想とか信念というもの、その実まったく中身は無色透明、どのようなものかすらよくわからなくなっていた。改革とは、そもそも誰のための改革だったのか。結局のところ、上官の不正を暴く勇気もなく逃げ出した先に、たまたま開けていた道だ。
 確かに、この国の構造に疑問は抱いていた。
 確かに、一部が有し多くが貧困にあえぐという構図は、どこか歪である。そうなった理由は多くあるような気もするが、まだ俺は何もしらない。知らなかったのだ。
 大W石原素の転換、それすらもままならぬ帝国。土台、潤沢な資源を有するウィンドルや高い技術と安定した原素供給が約束されているストラタ、その二カ国とは根本的に国というものの性格が違うのだ。
 それでも対等に、それでも彼らと肩を並べて生きてゆかねばないこの国の不幸。それは即ち国民の不幸だった。奪うことでしか糧を得ることが出来ない有様もまた不幸である。常に銃剣を携えていなければパンにありつけない、それも不幸だ。この国は過酷で、大W石はその所在すら一部の特権階級のみに知らされていて、その利権も恩恵もやはり一部の人間だけが享受できる。それが、最大の不幸だ。
 その不幸というものに対してフェンデル人は自ずと感情を蓄積させてゆく。恨み、怒り、悲しみ、諦め、嘆き――永久凍土とザヴェート山に吹く風がああも冷たくそして心に痛みを覚えさせるのは、不幸な国に生まれた不幸な人々の嘆きなのか。
 だから、変えようとした。これほどに長い間不幸に閉ざされていたものを、簡単に変える事などは、出来るわけがない。長く使った蒸気機関が相当の手入れを施さねば元のように動かぬのと、同じこと。フェンデル帝国という機関は、蒸気と火の原素に焼かれ錆び付き動きはすっかりと鈍ってしまっている。余程の覚悟なくしては、変革など、望めまい。

 自分はただの技術屋だ。それでいい。そう言った事が酷く遠い昔のことのように思える。


 背中に悉く背負い背負わされたものが酷く重かった。
 理想、信念、期待、託されたもの、願い、抱えきれないそれはやはり混濁してきて緩やかに繋がり、灰色になる。だがその灰色は、カーツ自身の財産でもあった。灰色は、決して特定の何かに染まることはなく、貪欲にあらゆるものを混ぜる色だ。昔、商人に貰った絵の具を全て混ぜて遊んだ記憶が蘇り、カーツはふと笑う。何も出来なかったくせに、何でも出来ると思っていた頃だ。
「何を笑っている」
 不愉快極まりない、という声と共に乱暴に背中を蹴られた。ふらつく足でなんとか転ばずにゆるやかな歩みを止めずに済む。カーツは黙っていた。言うべきことは、少なくともこの治安維持警察にはない。
 治安維持警察らに護送される形で、政府塔の巨大な扉をくぐる。思えば、この扉を潜るのは一体どれほど久しぶりなのだろう。あまりにもめまぐるしい変化が立て続けに起きすぎた。懐かしい、と思うと同時に、既にして灰色に溶け込んでいた過去の自分自身を唐突に思い出し、自嘲気味に口端も歪むと言うものだ。
 カーツを取り囲む、五人もの護送用の兵。些か警戒が過ぎるように感じたが(なにせ、今のカーツは過激反政府組織くずれとはいえ武器を取り上げられた元技術少尉である)、振り返ってみれば、二十人近くの治安維持警察兵を殺した、過激反政府組織の、その代表者である。そしてカーツの胸に去来するものは、大それたことをしてしまったといったようなものではなく、あぁ俺たちはそれなりに結果を出したのか、という思いだ。

―――成る程、十分危険人物だ。

 そのように己を振り返ってみたところで、やはりどこか他人事のようで、笑いがこみ上げてくるのだが、見咎められても面倒なので俯いていた。
 扉の閉められる重たい音を背中で聞く。その瞬間、何の抵抗もなくふっと帰ってきた、などと思った。手錠も、周囲の治安維持警察の姿も、カーツの意識の外の存在だ。徐に、天井を仰ぐ。無機質でやたらと高い天井、やたらと広い空間、大勢の人間がいるはずだのに、人の気配が殆どない、まさにこれがフェンデル帝国の中心、ジレーザだ。やはり、ここが、俺の帰る場所なのか。確かめるでもなく、疑問でもなく、やはり自然にそう考える。
「総統閣下が貴様に会いたいそうだ。基本的に貴様に発言の自由はない。が、総統閣下がもし貴様に発言を求められたのならば、常識的な言葉での発言を許可する。何かおかしなことをすれば、すぐさま射殺できる。それを、忘れるな」
 おかしなこともあるものだ、とカーツは思う。何故、わざわざ危険を冒してまで総統が反政府運動の首謀者と会おうなどと言うのか。総統とは、それこそ力で全てを押さえつけ軍事主義を邁進する傲慢な為政者ではないのか。
 総統、そういえば、あの新型をマリクはどうしたのだろう。そもそも、どこにいったのか。包みを見た記憶は、近くはない。その近くはない記憶では、指令本部としていた例の旅籠の地下倉庫にあった気もする。
 すっかりと記憶から抜け落ちてしまったものが、元の鞘に戻ったとたんに思い出される、その現金さにいよいよカーツは苦笑いを抑えることが出来なくなっていた。くつくつと笑いを忍ばせればいよいよ怪訝そうな顔をする護送兵に、カーツは場違いなほどに晴れやかな顔で尋ねた。
「銃を」
「何?」
「お前等が押収した、あの、銃だ」
「とっくに運び出してある」
「そうか」
 では、あれは総統の手に行くのだろうか?出来たばかりの(それにしては体裁が整いすぎている気はするが)治安維持警察のトップが誰なのか、カーツは知る由もない。最早、終わったことなのだ。総統が何を求めているのか、目的が何なのかなどどうでもいい。

 マリクが何も告げずに姿を消した。その知らせを聞いた時カーツが覚えた感覚は、ただ現実を受け入れるしかないのだ、という諦観だった。コンドラトを失ってからどこかに蘇っていた忌々しい、とても馴染んでいる、泥の底にたゆたうような抗いがたい感覚。灰色の色彩に溶け込んでいた、だから常にカーツの中にひたと寄り添うようにして裏側に潜んでいたもの。
 そのことについては、特にこれといった感情を抱かなかった。なんとなく、あの男はそうなるだろうという予感もあった。ロベリアという女がマリクにとっての全ての原動力ではなかったかもしれないが、大いに影響はしていた。逆もまた然りだ。互いにそれは、最初からそうではなくとも、徐々にそのように感情を重ねたのだろう。そういうことは、別に不思議ではない。理屈と言葉をならべると意外なほどあっさりしたものだが、他人の事と割り切るにはあの二人はカーツの中ではあまりにも近しい存在でありすぎた。珍しく他人を内側に招くような真似までして、成る程裏切られても構わぬとは思いつつ実際に裏切られると、そこにぽっかりと空洞が出来てしまうものなのだな。自嘲の言葉はまったく途絶える風でもなく、カーツは再び笑いたい衝動を覚えていた。
「入れ」
 促され、一度も開いたところを見たことのない巨大な扉をカーツはくぐった。そして、そこにいた人物を認めたとたん、カーツは呻く。何故。物事を理解できない瞬間に、己の中に在る疑問を言葉にすることが出来ない瞬間に覚える感覚とは、こうも気分が悪いのか。以前も、そういえば似たような感覚に陥ったことがあった。自分のあずかり知らぬ所で己の命運を定められている、という、あの不快感だ。またなのか。
 総統がおわすと言うそこに、カーツが開発した新型を携えたイワン少佐がいた。こちらを労うような態度だ。どういう、ことなのか。問いただす言葉すら口から飛び出ることはなかった。数少ない軍部でも信頼していた相手が、何故、ここに。
「カーツ少尉、久しぶりだな。その様子では、大分無茶をしたようだが、無事で何よりだ」
 ひどく白々しく聞こえる言葉にすら、応じることは出来なかった。なれば、そこにいたのはイワン少佐のみでなく、オイゲン総統がじっとカーツを見つめていたからである。それだけで相手を萎縮させるような、強い目線に晒されながらも、だがカーツもまた動じることはなかった。状況が、全く理解できない。が、いずれ処刑されるか牢獄行きの身なのだという捨て鉢な思いもあった。すると、こうしてこの国の最高権力者やかつての恩師と見えたとしても、どうということもないのだ。そうなると気になるのはイワンが携えているものだ。あれがここにある、ということはイワンが治安維持警察のトップなのだろうか?だが、制服は以前と変わらぬものを着ている。一体どういうことなのだ。
「理解できないという顔だが、おいおい説明はしてゆこうか、カーツ技術大尉」
 大尉?どういうことなのだ。目で問うていたのか、イワンが補足するように付け加えた。「総統はお前の功績を認めると仰っているんだ」が、その言葉すら、意味すらカーツは把握出来ない。元々、目の前の状況が殆ど飲み込めていないのだ。そこに、さらに軍籍を剥奪されぬばかりか昇進、それも二階級である。どこをどう考えてもおかしい。自分は改革派に与した、いや、自ら改革派として政府と事を構えたではないか。カーツ自身の手ではないせよ、既に政府側の人間を犠牲にしているし、こちら側にも犠牲が出ている。そもそも、対話の機会を潰してきたのは政府側ではなかったのか。それを、何故、今更。
「そんなものは、この私の権限でどうとでも出来る」
 尚も呆然としたままのカーツに、総統はそう断じた。直接こうして合間見えるのは初めてだが、成る程人を支配する側の人間なのだと見ただけで納得するような、そういう空気がこの男には存在している。言葉を露にするだけで、否、視線一つで人の命運を簡単に決めることが出来る、そんな傲慢さと恐ろしさを当たり前のように持っている。
「貴様の技術も才能も、そのまま埋もれさせるはこの国の大いなる損失と判断した。その揺るがぬ証拠となったこれは、殆ど貴様一人で設計開発したものだと、イワン少佐が証言しているが、それは誠であるな」
 総統の強すぎる目の光は、既に物事の結論を知りただ確かめているだけだと告げている。事実だ。ああ、そうだ、それは紛れもない、事実だ。そのW術回路を設計し調節し組み立てたのは、この俺だ。オイゲンの支配者然とした言葉に、そこにある傲慢さに刺激されたのだろうか。今の今まで殆ど忘れていたような自尊心が、急速に息を吹き返す。そうだ、俺は技術屋だ。
「間違いありません」
 だから、総統に対し答える声も、どこか異様な熱を孕んでいた。
「ならば、貴様を改めて技術大尉として、第一開発部へ転属させる。異論がなければ、貴様とその仲間のしたことに関しては条件付で不問にする」
 そこで、総統は言葉を切った。異論がある場合は問答無用だということだろう。
 そう、これはつまり、取引だ。総統が命令に従えば、俺は再び技術屋に戻ることが出来る。否と答えれば間違いなく処刑だろう。打算か、それとも矜持を貫くか。己の矜持というものは何であろう。技術屋だ。それは、誰のためでもなく己のためだけの、幼い頃から夢見ていた――夢?
 夢、だったのか?再びカーツは自問する。夢、否、そうではない。それは俺の一つの生き方だった。手段だった。だが、俺という人間はそれだけではなかった。結果は失敗したが、俺は手段以外の生き方を、見つけた。第一、俺はその最初の生き方をそもそも目の前にいる、この、オイゲンという男フェンデルという国に否定されたではないか。そうだ、一度否定しておいて、気まぐれに欲しいなどという、この、傲慢な男は、逆に言えば気に食わなければ簡単に俺を処分する。それは、俺がそう望もうと望まざると結果は変わらない。そんなものは二度とごめんだし、そんな歪さを引きずったままの政府塔なども二度とごめんだ。少なくとも、俺の記憶にはあのコンドラトの無垢ともいえるような情熱がしっかりと刻まれていて、マリクが嘯いた改革の言葉は熱を孕み続けたままなのだ。
 総統も、そしてイワンもひたすら黙っていた。そしてカーツの言葉をじっと待っている。
 ただ、広い空間に総統と上官のイワン、そして自分。実際は兵を潜ませているのかもしれないが、それで殺されるのならば致し方ない、というような気持ちもカーツの中には依然存在し続けていた。どう転んでも、最早何も怖くはないのだ。
「先に、条件と言うものをお聞かせいただけますか」
 そう口を開いたカーツに、イワンもオイゲンも特に何か反応を示すわけではなかった。ややあって、オイゲンが応じる。
「ふむ、扉の前で言われた言葉を忘れるか。改革などとははしかのようなものと思っていたが、どうやらそうではない人間もいたようだ。それが貴様だとすれば、これはわが国にとっては僥倖と言えるな」
 言葉は愉快そうだが、その声色は淡々としたものだった。が、見ればイワンの表情はどこか緩やかになっている。カーツは何も言わず、じっと総統に目を向けた。先ほどから、殆ど不躾とも言える視線を総統に向けているのだが、当の本人はそれに関して何か言う気配はない。
「組織の解体と、互いに二度と接触せぬという条件だ。もし軍部に復帰を望むものがあれば、以前と同様の扱いで復帰を認める」
 これは、殆ど破格の条件に等しい。あれほど改革派を弾圧し続けた政権のその最高権威の言葉とは、にわかに信じがたかった。が、カーツが再び唖然としたからか、イワンがオイゲンの言葉を復唱する。その選択を、カーツ一人に委ねている。
 オイゲンは改革派に助力したラティス商会に関しては言及しなかった――ストラタと通じているかの商会の力を奪う、これはそういう意味でのチャンスだったということか。改革派に助力したという証拠さえあれば、かの国の協力者(それはともすれば大統領府である可能性もある)を牽制できる。この国に手を出すな、そういう事を武力を使わずに出来るのだ。そういう手段も、オイゲンは考えていたのか。
 カーツは、考えた。考え、そして、既に出ていた結論を――それこそ、完全に道が閉ざされたと感じても尚、諦めることのなかった自分の中に在る確かな熱を、受け入れることにした。
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