晩秋の鉛色の空から白いものが舞い落ちた早暁、暴動が起きた。規模は小さなものであり、原因はやはり小麦の高騰に耐えかねた市民らである。腹をすかせて感情を抑制する手段を失った労働者らが、政府と結び小麦の取引を一手に担っている例の商社の事務所を襲ったのだ。予めそこは狙われるだろうと想定し視察しようとマリクが赴いた、丁度そのタイミングで暴動が起きた。目の前で繰り広げられる惨劇を、だがマリク一人で止める手立てはない。かといって放置するわけにもいかず、駆けつけたロベリアと共に治安維持警察が現場に辿り着く前に市民らを『隠れ家』の一つへとなんとか押し込めることには成功したのだが、空きっ腹に重労働を何週間と強制され続けていた彼らの怒りというものは、少しばかりのウォッカと堅いパンでは収まりきらなかった。
それでも、作戦決行前であったことは、幸いである。彼らの怒りは、駆けつけた自分たちを政府側の秘密警察と勘違いした彼らの誤解をまず解き、マリクは自ら名を明かした。それで自分達も近いうちいよいよ事を起こすと言うと、彼らは少し理性を取り戻したようだった。そのような抽象的な説明で何故彼らが納得したのかはわからぬが、そこはマリクである。巧いこと取り繕ったのだろう。自分にはそういうことは出来ないと嘆息しながらも、これで弾みがついたかたちにもなる。実行部隊に自ら加わると言い出したコンドラトも、目を輝かせていた。結局はこういうことになる。もう少し慎重に動きたいという自分自身の感情を否定はしないが、どうしたってここに集う人間は堪え性がない。耐え忍ぶ人間ならば、同志として加わってはいないだろう。自分もそのような、堪え性がない人間の一員なのだという自覚を繰り返し、そしてカーツは目を閉じた。最近、麦酒はやめている。変わりに嗜むようになったウォッカを舐め、長く垂らしたままの前髪の隙間から覗く光景のことは、深く考えてはいない。
マリクとロベリアが、普段はそう関わりのないような働きをしている彼らが、あまりにもタイミングよく合流したことの意味。同志の中心的存在の片翼たるマリク・シザースと、主に政府塔内部からの情報を集めているロベリア。男と、女。今は、そのような低次元な感情に左右される時ではない。ほんの少しだけ胸の奥にこびりつきかけているものを、カーツは断じて否定した。
作戦結果は上々だった。雪上訓練を最もこなしていた陸軍出身者はそう多くはなかったのだが、戦闘らしい戦闘は起こらなかったといっても良い。
山岳トンネルを東に抜けた先にある森林地帯は、確かに複雑な地形のようだった。コンドラトの先導がなければ、カーツでも道に迷い凍え死ぬか谷底に落ちるか、何れかの命運を余儀なくされていただろう。
「お前のお陰でこうも簡単に済んだ。コンドラト、本当に助かった」
「いえ、そんな。感謝されるようなことじゃありません」
配備されていたのは兵が六名と彼らをまとめる指揮官らしき男のみ。穀物庫の規模に対しては、フェンデル軍の現状を考えれば決して手薄ではないのだが、如何せん彼らは士気に欠けていた。中にはこちら側に内通しているのではないのかと思わせるほど無抵抗の者もいた。
彼らの制服は陸軍のものだったが、このような辺境の、しかも穀倉庫の守備などという地味極まりない仕事にはウンザリだと言うような、まるでやる気のない警備体制だった。
静かに降りしきる雪の中、コンドラトの威嚇射撃一発で、腰を抜かしてしまったのだ。晩秋の寒さということを差し引いても、軍人としてそれはあまりに情けないのでないか、内部勤務が主であったカーツですら、そう感じた。他の兵らはあっさりと投降し、どころか山岳トンネルとかつてのベラニック坑道を繋ぐ隠し通路を教えてくれた。
そこで、彼らとコンドラトのやりとりから、彼らの士気のなさに合点がゆく。
元々彼らはこちら側になびく気だったのだ。その、切っ掛けを探していただけなのか、もしくはコンドラトは、それを予め知っていたのかもしれない。だから、自分に任せろといったのか。捕虜として捕えた所で彼らを養うような余力のないところに捕虜を六名も連れ込もうとしたコンドラトに、最初カーツは厳しい眼差しを向けたものだ。が、やはり彼らの、本来ならば敵対しているにも関わらずどこか打ち解けた様子を見ても、憶測は当たらずとも遠からず、まるきり見当違いでもなさそうである。
「コンドラト」
名を呼ぶと、血色の良い顔色にさっと影が走る。それでも性根が素直な若者はばつが悪そうにカーツの方を向き、「すみませんでした」と素直に吐いた。
「黙っていたことは、悪かったと思っています。ただ、あまり表立って…」
「捕虜として扱おう。が、もしその気があるのならば働いてもらう」
言葉の意味を一瞬捉え損ねたコンドラトが不思議そうな顔を――きょとんとした無防備な表情をするが、すぐさま満面の笑みが少年らしい面に浮かんだ。
「はい!ありがとう…ございます!」
「陸軍兵は貴重だ。事を起こした以上、戦闘行為は避けられんからな」
言いながら、自分たちは戦争をする気なのかとカーツは己に問いかけていた。そうではない、あくまでも、これは政府側に改革を促すための行動なのだ。だが、政府は和平的手段をもってしているうちは聞く耳を持たなかった。だから。そこまで考えて、自身に言い訳を始めている時点で違うのだとカーツは割り切った。綺麗ごとでは済まない。だから、雪上訓練を最も多くこなし、雪山でも動ける陸軍兵は貴重なのだ。
彼らが言う隠し通路とは、ベラニック鉱山から帝都付近まで伸びていたかつての坑道の名残で、現在放棄され通行禁止とされている坑道自体は丸々残っている場所だった。その辺りの管理の朴訥さもまたこのフェンデル帝国の裏側を示しているようだが、それは兎も角として兵らを一時的に拘束し、それで当初の目的は果たせたようなものだった。行動のリスクと照らし合わせてみれば、今回得たものは大きい。
まずは、こちら側の勝利だろう。だが、最終的な勝利は改革を促して初めて得られるものである。そのことをカーツは、今一度かみ締めた。
「辺境陸軍ならば、なるほど不満を抱えているのか」
「中央だって変わらないわ。それでもあんなふうに威圧していなければ、あっさりと崩れ落ちるような脆さで出来てるってバレてしまうでしょう。虚勢と抑圧でしか、国を維持できないなんていうのはどうかしているわ」
嘆息するマリクに応じて過激な言葉で応じるのは決まってロベリアだ。彼女の言葉と思想の背景にある怒りらしきものは、何に向けられているのか。それをカーツらがうかがい知ることは出来なかったが、少なくともその憎しみが体制に向いているのならば放っておけばよいだろうというのはマリクの意見だった。だからこそ単独行動はさせられない、という理由は実に尤もらしいのだが、ロベリアとマリクがどうやら互いにほのかな感情を抱き合っているらしい、という事にカーツも気付いていた。ロベリアの言葉をマリクは理解しすぎるし、ロベリアの視線やら物腰はマリクを意識しすぎているのだ。
「だから、オレ達でも足元を掬える可能性がある。兎も角、奪った物資は例の場所に保管したのだな?」
案の定、である。細く開いた片目で友人とロベリアを交互に見やりながら、カーツは最後にコンドラトに視線を投げた。常に上気したような赤い頬の少年は、印象とは裏腹の硬い表情で頷く。奪った物資は、ベラニック近くの坑道跡に隠してある――猟師がストラテイムの角などの保管庫代わりに使っている、ベラニックの住人ぐらいしか知らないような、知る必要もない場所だ。作戦行動の説明は、実質村長のようなものである旅籠の女将には既にしてあり、協力してくれた対価についても話をつけてあった。代わり映えせぬ故郷でこの反政府活動はどうやらそれなりに支持されているようで、カーツにしてみれば意外であったのだが、大分動きやすくなったのも事実だった。女将はカーツのことを覚えていたという事も幸いだったか。彼女は十年前と同じように、カーツのとった行動を彼女なりの言葉で認めてくれた。
「そうか。それはそのままベラニックの連中に配ってやれ。元々はあいつらがこしらえたものだからな」
「良いのか?」
「構わん。それよりも、投降兵の様子はどうだ?」
「裏切るとは思えんが、一応監視の人間はつけておいた。ベラニックに行くのはあいつらでいいだろう」
軍部も考えることは同様らしく、かの穀倉庫に配備されていた兵は皆ベラニック出身だった。ベラニックは、カーツらに協力的だ。なれば、彼らの顔をベラニック住人に覚えさせることで裏切りを防ぐ。ああした村落での裏切りの咎は、己のみならずその家族にまで及ぶ。カーツの意図を理解したマリクが眉を潜め、ロベリアにいたっては何かを言おうとしていたが、明確に誰もカーツを否定はしなかった。
それでいい。確かに信念も理想も大事だ。だが、もう既に事を起こした。政府管理の穀倉庫が襲われ、物資を丸ごと盗まれたのだ。これからは今までとは違い、政府側も本腰を入れてくるだろう。武力衝突の可能性は十分に考えられた。彼らと通じていたコンドラトが納得している。ならばいいのだ。
***
「それは、確かか」
カーツの珍しく荒っぽい声色にコンドラトは一瞬気圧される。が、もう一度はっきりと頷いた。「俺一人だけなら、カーツさんに話なんかしません。そうじゃないから話す事にしたんです」
「ふむ」
「ロベリア。名前だけを名乗る同志は少なくはないから、特に気にはしませんでした。フェンデルなら珍しい名ではありませんから、総統の娘と同じ名と気付いただけでは、報告出来ません」
いざという時の逃げ場として確保しておいた廃屋の一つでの密やかな会話は珍しくはない。今日の帝都も寒々しい雪景色で、暖炉がなければ立っているのもままならぬほどの寒さだ。だが、他の場所では出来かねるとコンドラトが言うのも、これでは無理からぬことだと思う。
同志らの中でも特によく政府塔内部の情報を持ち出して来るロベリアだが、時折行動を共にする度にカーツは疑問を抱いていた。
ロベリアという女はそう冷静ではなく、どちらかといえば感情に左右されやすい性格だ。胆力はあるが、冷静とは言いがたい。淑やかな容貌からは想像できないような苛烈な言葉がその唇からは飛び出すし、そのくせ少女のような顔を時に垣間見せたりもする。好悪でいえば珍しく好感を抱いている女だし、無能ではない。だが、こと隠密行動を前提にした諜報活動には秀でているとは言いがたい。
だから、コンドラトが言うようにロベリアがオイゲン総統の娘とするならば、彼女が政府塔内の構造や事情に詳しくああもう簡単に情報を探って来られるという事に納得も行く。
「何故、気付いた」
「総統に娘がいること、その名前も風貌、どちらもごく一部の人間しか知らない。そのごく一部が軍人である、とは限りません。お嬢様が逃げた、と、メイドが心を許した兵に漏らすことは不自然じゃあない」
コンドラトは一度そこで言葉を飲み込んだ。言うべきと決めてここに来た。が、どのように切り出すべきか迷っている。今更に告げるべきか迷う。そういう若者の迷いが見て取れた。
そうして、暫くの時が過ぎた。
カーツは黙ってコンドラトの言葉の意味を考える。ロベリアがオイゲンの娘だという事実をどうすべきか。だから何だ、と言う考えがまず浮かんだ。次に、オイゲンの娘というのならば利用できると考えた。利用、情報を引き出させる。父と娘の関係を伺い知る情報はどこにもなく、ゆえにそれがどの程度危険かは全くわからない。だからカーツは、組織のためという視点からまず考えていた。そして次に、ロベリアが危険である可能性を、漸く考えた。
がたがたと壊れかけている扉を乱暴に叩く風の音が、耳に突然飛び込んで来てカーツの思考を遮る。コンドラトは、重たげな吐息を一度吐き、言葉を再開させた。
「叔母が、まさか政府塔内で仕事をしている、それも総統の娘付きだなんて話は、俺だって初めて知ったんですよ」
総統の娘の名がロベリアであること。彼女は士官学校では母方の姓を名乗っており、総統は一人娘の名を公表したことはない。娘がいるという事自体を知らぬ将校も多い。確かに上流の人間だろうとは思ったが、まさか現総統の娘とは考えなかった。言葉を失ったカーツに、コンドラトは強く、頷く。
「そういう人でも改革を支持する。そういう風に考えればいいんです」
若者の目の奥の光は、はっとするほどに強い意志を宿している。上気している頬とはきとした口調は、彼が改革運動の同志として加わった時から一切変わることはない。
あぁ、そうだった。出自などは関係がない。大事なものは、何か。感情が跳ねて波打つ。息苦しくもあり、心地よくも在るような認識し難い感覚が足元からせりあがってきた。沈着に思考することで見落としやすい感情というものがある。理屈で理解するには、カーツという男はまだ若い。如何に苦渋を舐めさせられ、年齢よりは大分落ち着いた風情であるとはいっても、そう見えるだけ。友人マリクの言葉の通り、内に抱えている感情はそれなりに熱く、不器用で慎重な性格がして目立たないだけであった。
「そうだな、その通りだ」
尊敬していると豪語した相手に認められた少年の喜色は、あからさまなものだった。その無邪気さがひどくまばゆく見えて、カーツは目を細めた。
マリクに言うべきか否か。コンドラトは言うべきと強く重ねた
。
確かに、誰が見てもマリクとロベリアは互いに想い合う男女というように見えるのだ。とはいっても世間の恋人のようにあからさまに甘い空気を纏っているわけではない。むしろ、不自然さを伴っているからと言う方が正しいか。それで目聡い或いは二人に親しい人間にはそう見える程度だ。周囲に迷惑をかけるわけでもなく、同志達もどちらかといえば彼ら二人の仲を見守っていた。男女の仲になる連中は、多くは無いが他にもいないわけではなく、カーツはそれらを黙認していた。こんな状況なのだ。生きるか死ぬか、という場合もなきにしもあらず。そして、多くは若い将校だ。無理に抑圧したところで士気はあがらぬし、それでは人の営みとしては不自然ではなく、何よりも政府とやっていることが変わらなくなる。人が人であることを否定し、その生涯を国のために使えなどと言う、奴隷を生み出す構造を抱えてそれでも尚不恰好な国家を貫く、このフェンデルという国と同じことをすることになる。苛烈さを増しつつある改革運動――最早反政府運動というに相応しい様相を呈する中初志を貫くには、そういった人間らしさこそが最も重要だと言うことは、流石にカーツとて理解していた。
ロベリアが素性を隠したがるのは無理からぬと思う。が、そのようなことで誰が彼女の心を疑うだろうか。誰よりも強い改革の志を持っているというのは事実で、確かに感情が先走りすぎるところはあれど、それですら同志を奮わせる言葉たりえることも多いのだ。彼女の存在は、マリクやカーツとは別な意味で、特に女性の間では心の支えのようなものになっている。
当人の口から言わせるのが最も良いことは、承知していた。だがカーツはその方法を考えなかった。俺が言う。コンドラトに念を押されるまでもなく、そうするつもりだった。
淡々と事実だと告げるカーツに、マリクは俯いたままだった。諜報が得意ではないあの女が、あのように重要な情報を探れる理由がわかった。そうとだけ加えて、カーツは話を切り上げた。胡乱に言葉を繰り返すマリクの様子が気にならないではなかったが、余計な言葉を用意しているわけでもない。そして、そこで潰れるような男ではないという、友人に対するカーツの確信があった。
そのことで、マリクとロベリアの間に何があったかの仔細は聞いてはいない。だが、あれほどの頻度で顔を出していたロベリアが最低限しか顔を見せなくなり、そうした時は決まってマリクを彼女は避けた。時折男を一瞥する女の視線の棘には悲しみが垣間見えて、友人がどのような手段をとったのかをカーツに知らしめた。マリクはあれで、実は恋には臆病な男なのだ。その辺りが、あの人誑しの愛嬌だとカーツは思う。
ともかく、マリクに変わった様子はなかった。常のように酒場で演説を始め拳を振り上げだした友人の姿を見て、アルコールに酔う。それでよい、と思った。
ロベリアは何度か情報を持ち出してきていた。それも、以前よりも更に重要な情報を携えてくる事が多くなった。彼女が危険を犯している、という事はわかったが、カーツは何も言わなかった。彼女の表情が以前よりもずっと堅く、ふわりと香る清楚な匂いがなくなっていることに、カーツは気付いてはいなかった。
それでも、若き理想を掲げた将校らに始まる改革運動は、ザヴェート市民の確実な支持を得ながら着実に前に進んでいた。一部富裕層からも、改革の声が上がったのだ。まだまだ保守派勢力が強いとはいえ、改革を望む声もまた無視できる規模ではなくなってきていた。特に金属を扱う商社の一つが協力を申し出てきたのだ。フェンデル特有の金属を諸外国に売りさばくことで利益を得ている彼らは、こうも強い鎖国政策と威圧的な外交に煮え湯を飲まされ続けていた。彼らからすれば、ストラタもウィンドルも敵ではなく商売相手だ。というのに、フェンデル政府がそれを許さない。法外な関税をかけることを前提に、輸出量も制限してくるのだ。利益を上げるたびに掠め取られる税金もふざけているとしか言えない金額で、成る程不自然なほど潤沢であった軍事資金はそのような民間商社から横暴ともいえる政策でもって搾り取ったものだった。
そうした申し出も、かの一社のみに留まることはなく、軍部の除籍処分に怯まぬ将校も増えてきていた。政府の内部改革を訴える声は、そうなると穏便な手段だけに留まらなくなるのは最早必定である。繰り返されるデモ隊と、新たに組織編制された治安維持警察との間での衝突も、珍しくはなくなっていた。晩秋が過ぎザヴェートの石畳は凍りつく。寒さが一層増す季節に、改革を望む熱気を孕むシュプレヒコールは途絶えることはなかった。
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