[3] 夢と幻と過去と今、開かれたもの II

 ザヴェートの雪が溶けた。他国では春先を意味するそれは、フェンデルでは初夏を意味する。一年の殆どを雪に閉ざされるこの国に、短い夏が来るのだ。街路で顔をあげると、雲間から薄日が差している。こういう日も、あるのだ。カーツは小さな笑いを含み、徒を進めた。相変わらず出歩く時は簡単な変装をするのだが、土台治安警察と街の人間は折り合いが悪い。脱獄犯の名と風貌がそこらに貼られていたとしても、見て見ぬ振りをする。無論そうでない人間もいるので、そのための変装だった。
 悪夢のような二週間の記憶は、始まりと終わりだけがやたらと明確に記憶に根付き、その過程はすっぽりとカーツの脳裏から消え去っていた。当たり前のように思う、一方的な略式裁判で牢獄に送られ脱獄するまで、カーツは思考らしい思考をしていなかったのだ。
 そうしてみれば、未だ政府に追われる身ながらも地下に潜り反政府活動などというものに考えを巡らせるというのは、悪くは無かった。人を動かすということはマリクに任せれば間違いは無い。ただ、友人は人を誑かすことは得手でも考え事は不得手であった。曰く、先に結論が見えるから説明が出来ないなどというが、単に面倒なだけである。行動力はあるくせ、肝心な所で物臭なのだ。
 あれから、二月程経っていた。軍部の追っては最初の数週間こそ執拗に思えたが、治安警察は他に警戒すべき対象も物事も多々ありすぎた。改革を望む空気というのは、カーツが思ったよりも随分と強まっている。つい先日も、闘技島経由で活動していた民間のゲリラ組織が蜂起したばかりだ。首謀者は巧みにストラタへ逃れてしまったという――或いはかの国の海軍とも繋がっているのかもしれない。一人の冤罪人を追うより、武装蜂起の鎮圧に人員が割かれるのは当然だ。が、だからといって追撃の気配が薄れているかといえばそういうわけではない。なんとなれば、冤罪ではあるがカーツは政治的な罪人であった。この街の淀んだ空気に潜む熱がこうも蔓延していなければ、数日も経ずあの虚無の空間に逆戻りすることを余儀なくされていただろう。
 それを、カーツ自身僥倖などとは思わない。なるべくしてなった結果である。この国に、確かに改革を望む気風は、染み出している。
 やることは山とあった。友人がらしからぬ慎重さから開始した思いつきは、いよいよ反政府活動の組織として人が集まりつつある現状。人が多く集まれば、それに伴い必要となるものは多い。
 土台となる組織構造といわゆる規律。これは、元々軍属や将校が多く今の所問題はあまりなかったが、将来的にやはり必要だろう。何度かの協議の末に、マリクをリーダーとすることが全会一致で決められた。が、次がいけなかった。その参謀役として、つまりは組織の運用やらそれに纏わる諸事雑事の取りまとめ役としてのカーツが使命されたのである。無論、犯人はマリクだ。そして、集まった人間の誰一人として異論を挟むことなく、特に協議するでもなく当たり前のようにカーツは参謀役を押し付けられた。些かの理不尽さを不服顔で訴えたとしても、友人は最初からそのつもりだったと悪びれもせずにその場で告白する始末だ。はじめからこの男はわかっていて、巻き込んで、謝る振りをして尚罠を張っていたという。手に負えんな。そう笑う自分が、思ったほど怒りを覚えていないことも、マリクは承知しているのだろう。
 元々、この男はそうした食えない所があるのだ。だが、不思議と腹が立たない。だからカーツは常に考えていた。こいつになら、俺は裏切られた所で悔いはない。言葉にしたことはなかったが、士官学校で知り合ってから一年と経ずにカーツはそう考えるようになっていた。
 もう一つの問題、これから先政府と対決してゆくのであれば絶対に必要になるものがある。それは、資金だ。市民の支持なども無論だが、理想を具現化するためには欠かせぬものだ。そういう話をしていると、マリクは一人の男を紹介してきた。カーツも知っている顔で、聞けば帝都中央広場近くの旅籠の亭主という。成る程、あそこはザヴェートでも唯一外国人が宿泊も出来る施設であり、商人などは政府に拘束されることを嫌がり政府塔内部に用意されている客室よりもそちらの旅籠を使う。旅籠の亭主は外国訛りや文化にも通じており、こと政府要人などはわざわざそちらに宿泊する事も多いのだ。以前から改革派だという噂はまことしなやかに流れていたのだが、それは噂ではなかったということか。兎も角、当面資金的なことを考える必要はない、と旅籠の亭主は言う。更に、使ってはいない地下倉庫を司令部にしてはどうかとまで言うのだ。そこまでされることに些かの抵抗をカーツは感じたのだが、マリクは当然というような調子でその言葉を受けてしまった。申し訳ない、とカーツが言うと逆に男の方が自分から言い出した話なのだと言う。疑えばキリはないのだが、マリクが大丈夫だというのだ。その言葉を信用するべきなのだろう。

 うっすらと頬に注ぐ光めいたものを感じつつも、慣れた様子でカーツはザヴェートの至る所に唐突に存在する地下階段の暗がりの一つへと、吸い込まれるように姿を消した。
 改革運動に身を投じる決定的な決断をしたあの日、わけもわからず連れて行かれた地下酒場。ああいった場所が実は帝都には数多くあり、そしてそれらを繋ぐ地下道――帝都地下を網の目に巡る配水管やら下水道、坑道を使うのだ――もある。だから、一つが摘発されたところで痛くもかゆくも無い。政府側としてもこういった地下酒場の存在は知っていたところで、そもそも密告する口が多くない。そして改革派に都合の良いことは、この改革運動という言葉がまず軍将校から出てきていることだった。軍部といっても、主に政府党内部ではなく実戦部隊、派遣部隊など何れも血に逸る連中が多いのだが、彼らにしてみれば祖国の為という大義名分を誇りにするには、略奪染みた行為しか繰り返し命じない上層部に最も不満を募らせて当然というわけだった。彼らの中には昨年のベラニック奪還戦の勝利の快楽の味に未だ酔いしれている輩も見えないわけではないが、それにしても己を誇れるものだけは必要なのだ。誇りが無い、そんな軍人はザヴェート海の流氷の下に沈めても役立たぬ。特にそんな過激なことを平然と言うのは、陸軍出身の将校達――ベラニック奪還戦で実戦部隊に配属された若い連中だった。
 内に入ってみて初めて分かる。この改革、友人の言葉は何も考えなしに情熱を由来にしただけで繰り返されたものでは、なかったのだ。先の旅籠の亭主にしてもそうだし、驚くほどに同志が多い。マリクは機というものは理解していた。だからこそ、自分に再三働きかけをしていたのだ。カーツがなびくことで政府塔内部に勤める技術部の連中も取り込めるという算段もあったかもしれないが、マリク自身が強烈に欲していたのは、カーツという男が持つ力であった。着実に、己の信念にだけ忠実に、時に愚直と言われるまでに一つの物事に打ち込む強さだと、マリクは友人の美点を称した。そういう言葉を改めて告げられたのは初めてで、言われた所で実感はわかなかった。だが、その言葉がカーツを前向きにした事は、言うまでもない。
 暗がりを潜り抜けて錆びたドアを開けると、そこは既に馴染んだ場所だ。戸口付近に立つ男に軽く手を挙げれば彼は帽子を軽く取って笑みを向けてくる。時折潜り込んでくる政府側の鼠を見分けるのが、彼の仕事だった。仲間に対しては人の好い青年だが、そういった仕事を任せられている理由は諜報部隊出身だからだ。言われれば、時折垣間見える鋭い眼光、常にこうして戸口に立っているにも関わらず気配を殆ど感じないところなど、その経歴を伺わせるものは多々ある。
「とりあえず、いつものだ」
 カウンターに無遠慮に座り込むや、向こう側にいる初老の男にぶっきらぼうに告げる。彼も彼で、カーツの姿を認めたとたんに既に準備していたのだろう。すぐさま目の前には冷えた琥珀色の液体が差し出された。良く冷えた麦酒は、今日のようなやや蒸す午後の不快さを誤魔化すにはもってこいだ。そうでなくとも、今日は工場区と居住区を何度も往復し、あくせくと動く破目になっていた。無論行動の成果はあったのだが、それにしても周囲に気を張り巡らせながらの移動である。身体的疲労よりも、精神的なものの方が大きい。ぐっと僅かなアルコールを含む苦味が喉を落ちてゆく感覚だけに意識を向けると、そうした労苦もどこかで報われるような気になる。
 この麦酒が親友マリクにからかわれる原因の一つで、アルコール分の強い酒を好むフェンデル生まれの男らしくはない、などといわれてもカーツはこの味わいを愛してやまなかった。
「隣、良いかしら」
 琥珀の液体を喉に流し込む、カーツの数少ない贅沢を邪魔されたという静かな苛立ちを遮るのは、低い場所で転がる鈴のような声だった。飲み掛けのジョッキを傾ける手すら止めて、文字通りその姿勢で固まる。幸いそれをからかうことが唯一可能である友人マリクは今は別の場所で行動しているし、配属の部下達はおのおの好きな行動をさせている。漸くそういう事が可能なくらいには人員は厚くなってきているのだからこそ、参謀役のカーツの仕事が絶えることはなく、思索が途切れることもほぼないといって良かった。
 ふわりと、まるでこの街に相応しくはないうっすらと甘い――それは仄かに甘いと感じる、ただそれだけの印象を残すだけの控えめで上品な香りに、カーツは思わず、思索を閉ざさざるをえなかった。
 思考を思わず停止してしまうほどの、けれどもほんの僅か。カーツが認識したものは、うっすらと漂い薫る女の匂いだった。一瞬だけだというのに眩暈がするほど濃厚に感じた理由は何故なのか。その理由を探るべく不躾に見れば、声の印象にそう違わない若い女だった。だが、こちらが相手を認めるや、どこか挑むようににこりと微笑む態度に神経の一端が反応する。名、そうだ、名前だ。カーツは覚えている。向こうは知らずともカーツは知っている、それは何も彼女に限ったことではない。カーツが、この反政府組織を大きくする上で自分自身に課しているだけの、自己満足によるものだ。名と顔は一致している。だがそれだけだった。
「『組織』の実質頭脳と言われているフェンデル軍第六部隊所属、出身はベラニック、階級は少尉、士官学校での成績は優秀、特に戦術戦略に関してのセンスと大紅蓮石の特性研究分野に置いて頭角を示し、特に有力視されている……あなた、カーツ・ベッセル技術少尉でしょう」
 はっきりと、いよいよ挑むような口調は、若い女性にしては落ち着いた調子だ。低い、というわけではないが高くもない、冷静さと余裕がどこかにある――そういう印象の声なのだ。はきとした口ぶりは恐らく彼女の中の思想が彼女自身に定着しているからであろう。出身階級は恐らく低くはない。物腰や物言い、そういうところから判断をつけた。何よりも時折鼻腔をくすぐる仄かな匂いは上品だった。少なくとも工場勤めなどをするフェンデル人が身につけられる匂いではない。かといって前線に配属される兵独特のきつさもなく、重油の臭いが染みこんでいるわけではないのであれば情報部の人間か。それにしては、やはりどこかで品が良すぎる女でもある。
「上出来だな、お嬢さん」
 カーツが続けて頷くと女はそれじゃあ失礼するわ、と微風のように言い、カウンターに並べられた粗末な椅子に腰を落とした。続けざま、ぴしりとフェンデル軍女性士官用の制服を着こなす女らしく、落ち着いた声色はフェンデル特産の酒の名を紡ぎカウンター越しに告げる。応じたのは初老の男ではなく給仕係の若い女性であり、彼女はいたって当然と言う風に注文を声高に繰り返し、厨房へと消えた。
 士官するということが生きる手段のもういっぽうであるフェンデルに、女の軍人は多い。他国と比べても圧倒的であるという話は聞く。だが、カーツ自身他国の事に興味などはないし持つ気もなく、ただ女性が軍人という手段を選ぶのが当然のようなこの国で、けれどもこの女はどこか存在が浮いているような気がしてならなかった。例えばちらりと認めた細い指先が、白いなと思ったりもするのだ。
「あら、褒めてくれるの。ありがとう。これでも私は、あなたがリーダーであるべきだとずっと考えているのだけど」席、良いかしらと彼女は言う。そういう挑戦的なことを平気で言う、金髪の女なのだ、と思うとどこか甘やかな香りが霧散するような気になり、カーツは前髪に隠された右の目で彼女を凝視していた。そのような物言いをするなという風な威圧を含めたものであったが、そうしてみるとふと、彼女が自分を見ていることに改めて気付いた。彼女は、確かに視ている。この俺を。
「あなた、珍しいものが好きなようね」
 ちらと視線を動かして再び微笑むさまに眉を僅かに動かすことで応じると、彼女は形良い唇をくいと曲げた。嘲笑、というものではない。どこか愉しげにすら見える。何より全く動じていない。人に見られることには慣れているのだろう、それがどのような視線であっても動じない胆力もある。
 彼女が微笑っただけで、どこか安堵しているようである自分自身に、カーツは内心で驚いた。が、それは先ほどの神経に触れた感覚に繋がっていた。
 そう、目立つような顔立ちではない。が、地味であることと美形であることは必ずしも同一ではないのだというように、その深い色の瞳やフェンデル人らしい白い肌やフェンデル人らしくはないプラチナブロンドはそこにあるだけで彼女という存在を主張していた。
「組織に名を付けないのは、まだそんな時ではないから。けれど私はその考えには賛成しかねるわ。だって、士気を上げることはこの国で戦うには必要なことでしょう」
「…何が、言いたい、ロベリア」
 あえて厳しく口早にその名を言うと、ロベリアははっと息を呑んだようだ。が、それは一瞬のことだった。ロベリアは、それを言うのがカーツという男であるからという理由で自分の名をカーツが知っていたことを納得したようだった。
「国を内側から変えたい。そういう事を言う男なら、もう少し性根が据わっていると思ったわ。それを私の勘違いだとは思いたくないし」
 運ばれてきたものを品のよい仕草で唇に含み、ロベリアは視線を上げカーツを真正面から見据えた。じっと見つめられている、こちらを見ている瞳の奥には、強圧的な色が垣間見えるような気になり、カーツは眉を寄せた。この女の不自然さだ。それは、不愉快という類の感覚ではないが、それでもどちらかといえば取り込んではならぬ類のようなものに思える。それは、理屈ではなく感覚だ。だが、感覚というものは時に的確すぎるほどの警鐘を鳴らす。こと、カーツは全く唐突に訪れる感覚の告げるものは信じる性質だった。経験から、そうなったと言ってもよい。
「示すことはいつでもできる。重要なのは、そういうことではない」
 変革を促すのだ。変化させるのだ。この、停滞した流れの中に淀み沈んでゆく、ゆらゆらと外側から締め付けられる感覚から逃れられない定めにある、祖国を。まずはその感覚と危機感を知らねば、意味はない。名などどうでもよいのだ。反政府活動などと大それたことを謳った所で、まだ自分達はまともな組織作りすら出来てはいない。反政府議論ですら規制されている中、地下に潜り数々の議論をそれでも繰り返してきている以上、知っているのならば自ずと集まろう。何より、将来的には武装蜂起も視野に在るという過激派も内包していれば、まだ名を持ち声高に自分達を誇示出来る段階では正直なかった。
「ロベリア。お前は例えば名があったから俺たちの行動に賛同したわけではあるまい?」
「……それは、そうね。夢見る男が言いそうな、甘い考え方ではあるけれど」
 ふ、と彼女は小さく笑った。そしてやはり少しだけ酒を唇に含んでから、微笑んだ。ちらと向けられた視線の中に諦観が見えたのは、それほどにこの女には気概があるということの証か。悪くない印象だった。はっきり言えば、ここ数日カーツが記憶に留めた中では、上等の部類だ。
「リーダーに会いたいの。マリク・シザース。彼に、話があるわ」
「その名を判って出している、と俺は受け止めても良いか」
「必要だからよ。対価を要求しないことで信用してもらいたいのだけれど」
 勝負時だと判っている、という眼差しの強さだった。嘘は恐らく言っていないのだろう。彼女が組織に入りどの程度関わっているか、仔細な情報は生憎とカーツの中にはなかったが、長くはない。富裕層で協力する人間もいないわけではないのだが、そういう中でも彼女はどこか異質に思える。その違和感の正体を突き詰めようとしてしまう、ということに気付きカーツは思考を途切れさせた。互いに深入りをしない。それは、この組織の中で暗黙の了解のようなものになっているのだ。
「駄目だな」まだ、駄目だ。言葉を続ける前に、いよいよきつさを増した女の声がかぶさる。「駄目だという理由を聞かせてもらえるのかしら」
「別に俺が入るまでもない。勝手にあいつが接触してくるだろうさ」
 何せいい女だ。そう続けようとして、ふとその言葉の意味することを考え、カーツは口をつぐむ。不自然な言葉の途切れにロベリアが不審げに瞬きをするが、カーツは言葉を一度飲み込んだ。
 別に他意はない。マリクならば口癖のように言うだろう。それを、俺が珍しく感じたというだけだ。それだけのことだ。
 まず己に、言い訳をした。それから、カーツはもう一度言葉を租借して飲み込んだ。
「何せ、いい女だ。あいつはそういう女には目がない」
 ロベリアの表情があからさまに曇る。そういうように言われるのが心外だとでもいうような表情だが、唇を小さく戦慄かせるだけで彼女の意思表示は終了した。一呼吸の間を置けば、彼女はまたそれまでの微笑を取り戻す。
 たしかに、良い女だ。恐らく、そうなのだろう。気概はある。ここに姿を見せるだけの、相応の肝もあるし覚悟も上等だ。
 だが一方、素性のよくわからない、仲間になって間もない女を彼に会わせるわけにはいかない。特に、この女は不自然だ。
 そういう理由をいくら並べ立ててもどこかで言い訳じみていた。一度そのように感じてしまうと、なかなか思考を戻すことができず、誤魔化すようにジョッキに申し訳程度残っていた麦酒を飲み干す。苦さも、温くなってしまった喉越しも、何時もとは違う味のように感じた。 >>back >>next