「おおい、ユン坊、いい加減出てこいって、ユン坊やい」
五月蝿い。
四日もきかないと少しはなつかしくなるかも知れない、なんてやっぱりありえなかった。懐かしむ前に、理不尽な怒りが湧き上がる。実は、そのイライラの種類が変わっていることに、あいにくと気がつくほどユックユックは大人ではなかった。
心の中で散々悪態をついてから、聞こえるわけでもなしにユックユックははあ、とこれみよがしにため息をついた。久しぶりのそれ、もやっぱり懐かしくはない。
だいたい、今日は朝からついてなかったじゃあないか。どうもこの兄と接していると、わけのわからない怒りの衝動に駆られる。その理由がわからない。だから、わけがわからない。思考の糸がとたんにこんがらかることにも苛立つ。
そうだ。昨晩から村の北の森のうなりがうるさくて、その音が昨晩に限ってはぐるぐると不安だけを掻き立てて眠れなかった。だから目覚めは最悪だったし、それは当然日はとっくに昇ってた。そのお陰で爺さんには怒られた。お陰で朝御飯は少なかった。まずひとつめ。
「おおーーい、いるんだろーー、ユン坊、ユン坊っ、ユック!」
久しぶりにしつこい兄は無視することに決めた。だいたい、誰のせいでこんなおれ頭きてるんだと思ってるんだ!口には、ださない。
それから昼食後。
本を読むはずだったのに突然ククルにひっぱってかれた。あのうすらでか、何かあるたび、におれに構う。勝手に一人でそこらへんでぶつぶつやってろよ。それがふたつめ。
そして最後。
「ユックユック!」
これが目下の大問題であって、最大の難関であって、結局のところの頭痛の種。
木製の扉を容赦なく叩く音。壊しかねない勢いだが、壊すことは多分ない。この『小屋』の持ち主はトパパだし、そのトパパを一番恐れているのは当のトオヤ自身だ。うちにいると兄弟にひきずりまわされるか、或いは何らかの用事を言いつけられるか…なにせトパパの神殿に住まう人間はまったくもってそこにいるすべての人間に平等である。女子供、男年寄りお構いなしに、やることはやれ。働かざるは食うべからず。唯一にして絶対の法があるとすればそれだった。
とはいえそのおかげで兄弟たちは健やかに育ってきているわけだし、口に出さずとも感謝はしているし、それは別によい。が、その為に唯一迷惑というものを被るとすれば、ゆったりと書物に知識に時をゆだねる事が難しい、ということであった。
つまるところ、この『小屋』はトパパが神殿の倉庫にしていたものを、兄弟の中でもただひとり本の虫である末っ子に特別に与えてくれたささやかな空間なのだ。朝夕のお祈りを一日と欠かすことのない末っ子に、村中でおそれそして敬われている老人は格別な愛情を持っていることは、皆の知るところだし、この少年が口数のわりに口達者とは程遠いことも兄弟たちはわかっていた。だから、ユックユックの十の誕生日の朝、トパパは皺だらけの顔に穏やかな表情で素晴しい贈り物をおくってくれた。
ここはそんないわくつきの小屋であり、ユックユックにとっては聖域といったってよい。だから、まさか壊されないだろう。けれど。
ユックユックは分厚いその本から顔をあげた。ぱたん、と閉じる。
これじゃあさっぱり本の内容が頭に入らないじゃないか。
いい加減にしろよ、もう。
年上だとか、成人の儀が済んでいる相手なんだとか、そういったことは思考の端にすらない。
「うるさい」
まだ声変わりはしていない、けれど不機嫌極まりないその声色に潜むものに気がついたのか、一瞬だけ音は止んだ。
止んだのだが。
「なーんだ、ちゃんといるじゃねえか」
しばらくして扉の向こうからきこえてきたそれは、あっけらかんとまじりっけなしにからからと笑う声。
これにはもう、いちいち反応するのも億劫になった。本を手近な棚におさめて、ユックユックは扉より離れ反対側の窓辺へとゆるゆる歩いた。
本当にこれでおれより二春分も年上なんだろうか。爺さんの言葉を信じないわけじゃないけれど、いや、爺さんの言葉だからこそ、ある程度は信用しているけど、こいつの言動見てるととても成人の儀を終えたなんて思えるわけない。そもそも、その意味がわかってなさそうだし。
「なあっ、色々仕入れてきたんだぜ、おもしれーこと。お前もさーもうそんなひきこもってねぇで、出てこいって!」
絶対に出て行くもんか。頼まれたって、100ギルつまれたって絶対出てかねえ。
口にすると相手の思う壺で、それは非常に癪だ。だからこそユックユックは唇を真一文字に閉ざしてはいたけれど、握り締めた拳はふるえていた。
やがて、とはいってもたいした時間ではないのだけれども、トオヤは飽たのか、来たときと同じように騒がしく駆けていった。
夕暮れ時にしてやっと手に入れた平穏を乱されて、いよいよ眉間のしわが深くなるところだったけれども、どうにかこうにか落ち着けた。
晩まではもうすこし時間がある。傾きかけた日が西の峰に沈むまで、もう少し本に没頭しようか。
そう、思考を落ち着けたところにちらと視界の端に見えた北の空。この『小屋』はウルの最北部に位置しているから、裏の窓はつまり北側を向いている。
その赤さが、ユックユックの心臓を突き刺すほどざわつかせた。
この『小屋』の窓は大きいから、側によればもう少し外が見えるかもしれない。
いてもたってもいられず、棚の下に無造作に転がる飼葉桶を手にとると足場代わりに、ユックユックは小さな隙間から外をのぞく。
果たして、窓から見える景色は、いつもと何もかわってなかった。
風車はのんびりとまわっているし、村中の家屋の屋根につけられた風見鶏や風車はくるくるせわしなくまわっている。
収穫が近い麦畑はざわざわと去年よりもたわわな穂をたなびかせて。そうだ、そこにあるのは、いつもの、夕暮れ。
けれど、じゃあ一体何がおかしいなんておれは思ったんだろう。
もう一度、ユックユックは見えるものすべてに目を凝らす。
夕暮れ時なんだから空はあかがね色にそまってあたりまえだ。……ただ濃厚な雲の立ちこめた北の空だけは、無気味な色をなしているというだけ。
これが。
…………単に嵐が近いからこんな空だ、なんて思考を切り捨てるには、ちょっとばかり気分の悪い、色だった。
そうだ。
得体の知れない悪寒が後ろから這いよってくる。奇妙に寒い気もする。
気味が、悪い。胸がざわつく。
ぶるる、と首をふって桶からおりると、脇においた本を手に、『小屋』からユックユックは飛び出した。もう本を読むことも、じっくりと思考をめぐらせることよりも何よりも、早く家に帰りたかった。
漠然としたいいようのない灰色の不安がもやもやと腹から胸から頭から、はなれない。その気味の悪さ。きっとククルだったら特別気にしないだろう。トオヤだったらその気味の悪さを誇張して村中にふれまわる。ラーズは、何事もなかったようにふるまう。
けれど、人一倍不安に恐怖を覚える兄弟の末っ子は、一刻も早く自分の場所に帰りたくなっていた。
おっかない爺さん。口やかましくて優しいニーナ。三人の兄貴。
言い知れない悪意がきっとこの地の奥深くに沈んでいる。そんな、漠然とした不安。説明できないもどかしさ。その、恐ろしさ。
生温い風が実りかけの麦の穂を揺らしている。
ざあざあと風に身をゆだねる木立と黄金の畑を、ユックユックは脇目もふらずに駆けた。駆けて、駆けて、駆けていった。