ざ、ざ、ざぁ
ざざ、ざぁ。
それは静かな音。
くりかえし、くりかえされる波。こうして床に就く前の波の音もようやく耳になじむようになった。
果てのない水平線、月明かりの夜に、一度は絶望を覚えたけれど、今やしっかり足をつけて俺は大地にたっていて。それだけでも、ひどく安心する。不思議だった。この地に足をつけてみると、まだ見ぬ土の輝きが足元から伝わって来るような気すらおぼえる。
ざわざわとざわめく胸のうちはまだ晴れない。
けれど、確実にまた一歩、俺たちは前に進んだ。
人一倍大きな体躯と穏やかな目。だけれど近頃ひどく遠い目をするようになった。
トオヤはありゃいつもと何も変わらない、そういってつっぱねるけれども、俺はそうはいかない。
あいつは何も考えなくてもいいが、俺はそうもいかないんだ。
元々他人に対して関心が希薄だった。そのあいつが、はじめて、強く関心を持って…もしかすれば惹かれていた、少女が、目の前で、命を落とした。
そのことが、ククルの心そのものにどうにも暗い影をおとしている。わずかな変化は、けれどもとんでもない変化だと俺は思う。
果たしてそれが良いことか悪いことか、それはわからない。
無関心を装っているトオヤも、逆に気を使いすぎてるユックユックも、暢気でマイペースなククルに何度心持救われたかわかりはしない。
もちろん、俺も。
だけれど、だからといって、むやみに声をかけたり気を使うことは出来はしない。
もともと、ククルはしゃべることも苦手というか、少なくとも進んであいつから話をすることはない。他愛のない会話すらも、あいつが気が向いた時にする程度。おかまいなしにつっかかって一方的にしゃべってるのは、口から先に生まれてきたようなユックユックくらいだ。
波の音だけが世界のすべてだった、そんな折に出会った少女はあまりにも白く、命が細く、まるで人ではないように、俺には思えた。だからこそ、人ならざるものと常に沿って生きているククルには強烈な存在だったのかもしれない。
耳に心地よい波の音、決まってはいなく、けれどゆったりと、静かに海水が寄せてはかえる夜の浜辺は、とりわけ独りになり己と語るに向いていると思う。
だから、何も、口にする必要はない。
俺も、そして隣にぼんやりと座るククルも。
トオヤはまた爺さんたちに捕まってぶつぶつ文句をたれながら誇張つき自慢話でもしているんだろう。無理やりつき合わされているユックユックはもう半分眠くなってる頃だ。
あいつらは連れてこなかった、というより、ついてこなかった。
俺がなにげなくと席を立とうとしたときに、トオヤが目だけで頷いていた。あいつだってなんとなくわかっている、だから、俺に多分任せたんだと思う。
波音に意識を傾ければ、明らかに、世界は色を取り戻していることがわかる。
風の、炎の、水のそれぞれの輝き、言葉ではなくて、言葉には出来ない、だけれども圧倒的なクリスタル。その大いなる恵みは徐々に息吹を取り戻している。ざわめく波のはざま、そのしぶき、ひとつひとつがまるで違うんだ。あの死んだように凪いだだだっ広い海原の寂しさも無気味さも、かけらすらない。
だから、夜だというのに済んだ青がひどく鮮やかに思える。
その希望は多分、途方もない大きな流れの中、確実にクリスタルに光を戻すことになるんだろう。何も俺が楽観的に全部物事を考えているわけではなくて、ただ、そうでなければならない、そんなふうに感じる。強く。それはとても強い。
けれど、失ったものは二度とは復活するわけではない。
「エリアは還った」
ククルは、俺がそばに座ったときにぽつりといった。こいつにしては珍しく、「わかりやすい」ことをいう。けれど、俺は何かを答えたわけではなかった。答えられる言葉を、あいにく俺はもってない。
それからどれくらいこうして海を眺めて、すごしたろう。幸い海風は心地よい涼しさを運ぶ季節、風邪をひく心配はない。
「善いこととか悪いこととか、そういうわけじゃない」
波の音、風の音と同じリズムで、ククルはぽつりぽつりと言葉をもらしだす。
「俺は、そういうことは、わからない。でも」
遠くを見ている。珍しく感情の入り混じった目をしている、そんなことが横顔からも見て取れた。
「エリアは、それでいいといった」
ひときわ大きく波が寄せる。
しぶきが、腕や顔にかかる。さすがに冷たい。けれどもククルは微動だにしない。そんなことはお構いなし、といわんばかりだ。しょうがない、まあ、この程度ぬれたからって今更どうってことも、ないしな。
雲ひとつない。見上げれば谷にいたころよりも遠い月は、青く輝いている。どこまでも青い、この世界。
「だから、俺も」
ことさらにゆっくりと。
「それでいいんだ、ラーズ」
俺に、俺にいつのまにか向き直ったククルは、穏やかに微笑んでいる。
胸が痛くなるほどに、おだやかに。ああ、これはユックユックをつれてこなくて正解だ。
「そっか。ああ、そうだな、それで、いい」
つられて俺も笑う。わらってしまう。
そりゃ、あ、ここで笑えるのは俺しかいないんだ。トオヤじゃだめだ。あいつは多分怒っちまうな、頭でわかってても感情がついてく奴じゃない。
「エリアのことは、結構好きだから、いい」
目の前で彼女が倒れたとき、ほんの一瞬。あんなに凍りついた目をしていたとは思えない笑みだ。冷たい衝動が俺の中を駆けた。恐ろしかった。俺の知らないこいつが、ひどく不格好で、恐かった。
「あれは、痛かったんだ。変なものが、水の流れに噛み付いて。頭と腹のあたりがずきずきした」
たぶん俺の表情を読んだんだろう。へらっとしたまま、ククルはいつになく饒舌だ。機嫌がいいんだな。
波に手をつっこみ、水と砂で泥のようになったそれをククルは一すくいつかむ。粘度のないそれは、さらさらと抵抗もなく節くれだった指の間から、こぼれおちてゆき、何事もなかったかのように泥は元にもどり、再び陸と海との間をたゆたう。
その様子を満足げに見つめて、頷くと、二つの瞳はまた俺を見る。
「こうやって…何もしなくてもいいのになあ」
水だって砂だって、勝手にもとに戻るんだ。
手なんか加えなくたってな。
……………ほんとうにこいつは。
「それはな」
俺にだって悪戯心がないわけじゃない。にやりと笑って両手をつかい打ち寄せ流れてゆく波と砂をかき回してやる。
そうしてから見上げれば、ああ、びっくりしたような、とはいっても弟ども二人のように大げさではないククルの顔がある。いよいよ面白くなって、俺は大声をあげて笑った。
「しょうがねえよ。皆がみな、お前みたいなペースじゃあないんだ。ましてややつら」
俺にはわからないやつらの思い。闇の力、闇の思い、この世界にある、もうひとつの力。それは夜、人の知らない世界、関わるべきではない世界。
トオヤは俺よりはもっとわかっていて知っている。けれど口にはしない。あいつも風の声を聞いていたからな。
「必死なんだよ」
俺にはわからない、やつらの正義。俺たちにしてみれば悪で敵であってあるそれは、多分、やつらにしてみれば悪ではないことを、風はあらかじめ教えてくれていた。
ただ、その思いが強すぎて。ただ、その力はあふれすぎて。
「そう、かぁ……おまえがいうんだから、そうなんだろうなあ」
空をゆく海を渡る風は、決してやむことのない故郷の風と似ている。
風車の音、風車の音が、聞こえるような気がして、俺はもう一度笑った。