【幕間】帰還

 誰もいない喫茶楽園。甲洋は愛犬ショコラと共に奥のボックス席で、コーヒーを飲みながら何を考えるでもなく過ごしていた。
 数日後には戦いがある。戦うことこそが、甲洋がこの島に戻ってきた――正確には、戻ってこれた理由だ。フェストゥムと同化し、一度は肉体を喪った。けれども戻ってこれたのは、今はもうここにはいない少女と島の導きのお陰だ。幽かに記憶の残滓のように見える「彼女」と、決して忘れることのない少女は、甲洋に島を守ってほしいと願っている。それは、今の甲洋自身の願いでもあって存在理由でもあった。
 ヒク、とショコラが顔をあげる。愛犬は寛いでいた様子から一変し、どこか忙しなくなる。

「ショコラ?」

 甲洋が声を掛けるのと、扉のカウベルが鳴るのとは同時だった。

「やっぱりここにいたんだな」
「一騎……」

 懐かしい、あまり変わらないその姿に、甲洋はどう反応してよいのかわからずただ懐かしい名前だけを口にする。
 かつては仲の良かった友人。真壁一騎とはお互いに色々なことが、ありすぎた。けれども最終的には痛みを分かち合って、以前とすっかり同じというわけにはいかないが、ぎくしゃくとした関係ではなくなったと甲洋は記憶している。それ以降言葉を交わすことが殆どなかったからろくに意思疎通もしていないのだが、柔らかな表情を浮かべている友人はたぶん甲洋と同じように思ってくれているのだと、思う。
 フェストゥム由来の読心能力を使えば、一騎の内心などは簡単にわかる。けれどもそんなことを甲洋はしたくなかった。以前は知りたくても知れなかった他人の本心をいざ知れるとなると、それはそれでどこか怖いと未だに思っている自分がいて、甲洋は苦笑する。それを見た一騎が、不審そうに首を傾げた。

「何だ?俺の顔に何かついているか?」
「ああ、悪い、そうじゃないんだ。一騎、総士とは一緒じゃないんだな」

 総士、と口にすると今度は一騎が苦笑する番だった。

「俺たち、そんなに常に一緒にいたか?」
「前はそうでもなかったな。でも、最近のお前たちはいつでも一緒にいる気がした」
「そうか」
「立ったままなのも何だし、座れよ。コーヒーでも淹れよう」

 甲洋が立ち上がるとショコラも同時に立ち上がり、一度一騎の方を見てから甲洋に続く。「ああ」と一騎は答えながらカウンターの席についた。
 店内は少々記憶とは異なるレイアウトになってはいるものの、数日間過ごせばどこに何があるのかくらいはわかる。甲洋は薬缶に水を入れて火をつけてから、幾つかあるコーヒーの豆の中から楽園ブレンドと書かれたものを取り出してミルに入れ、豆を挽きだした。コーヒー豆の、香ばしい匂いがあたりに漂いだす。

「客の立場になるってのも、いいもんだな」

 一騎がどこか楽しそうに呟いた。甲洋が不在の間は、溝口と一騎がこの喫茶楽園を切り盛りしてくれていたと、剣司たちに聞いていた。一騎は島の調理師顔負けの料理の腕前で、その料理はたいそう人気があったのだ、とも。

「お前が楽園を切り盛りしてくれてたんだってな。ありがとう。お陰でここは、優しい記憶が集う場所になったって、来主が言ってたよ」

 未だに自動ではなく手動で豆を挽くミルを使い続けていてくれたことも、嬉しかった。両親が使っていたのは特にこだわりがなかったのかもしれないが、甲洋にとっては決して優しいだけではなくとも、家族との絆の記憶のひとつのようなものだから。
 やがて豆を挽き終わると、コーヒードリッパーにペーパーフィルターをセットして挽き終わった豆を淹れると、ちょうど良いタイミングでシュワシュワと薬缶から音が鳴り出した。

「俺は…ただ、俺にできる事をやっただけだ」
「それでも嬉しかったよ。俺の家をそう言ってくれるやつがいるってだけで、さ」

 年月を経たからだろうか。一騎との会話がとても弾む。それに、心なしか一騎の表情も軽かった。再会した時にはどこか別人のような印象を受けたのだが、今は違う。彼は甲洋の知っている真壁一騎だ。
 ドリッパーの上からお湯を注ぎだすと、いよいよコーヒーの芳醇な香りがあたりに漂いだす。甲洋はこの香りが好きだった。家にいるという気になる。

「甲洋も巧いもんだな」
「俺のは見よう見まねだよ。一騎たちのとは違う」
「だから、なおさらだよ。お前は昔からそうだった、何でも巧くやる」
「それは、一騎がそう思ってただけさ」

 ショコラは大人しく甲洋の足元にいるか、時折一騎の方を見て小さく鳴く。すると一騎もショコラをカウンターごしに見つめて柔らかく微笑む。

「俺は、本当は、帰ってくる場所なんてないんだと…思ってたよ。俺がいていい場所なんて、ないんだって」
「甲洋」

 黒い液体が、少しずつドリップされてゆく。ドリッパーに溜まってゆくコーヒーを見ながら、甲洋は続けた。

「俺はもう人間じゃないからな。事情をしってる真壁司令やパイロットたちはともかく、島の皆にも歓迎されないだろうって。だってそうだろう、フェストゥムは敵だ」

 抽出される液体に比例するように、甲洋の内面から言葉がぽろぽろと零れてくる。それは、誰にも伝えたことのなかった言葉だ。島とカノンという少女の力のお陰で肉体を得られたからこそ、できることだ。

「ずっと死力を尽くして戦ってきた相手だ。特殊な例だ、だからって簡単に納得できるわけじゃないだろう。フェストゥムに身内を殺された連中だっているんだ」
「甲洋…お前」
「感傷なんかじゃないよ、これは事実だ」

 甲洋自身はそう思っている。だから、居場所を用意してくれた真壁史彦や同期のパイロットたちには感謝しているし、できる限りのことをしたいとも思う。例え多くに感謝されなくともよかった。戦う理由は、あるのだから。
 ドリッパーに十分コーヒーが摘出されたことを確認して、それをカップへと注ぎ、一騎の前に置く。

「ブラックで、いいよな?」
「あ、ああ……よく、知ってたな」
「剣司に聞いた」
「そうか」

 一騎は小さくありがとな、と呟いてコーヒーを口にする。正直なところ、コーヒーの淹れ方に自信はない。長いことこの喫茶店を切り盛りしていた一騎が喜んでくれるかどうかはわからなかった。
 だから、一騎がカップを傾けて飲むさまを、甲洋はその気がなかったのだがじっと注視してしまった。

「うん、やっぱりお前はすごいよ。俺が淹れるより、ずっとうまい」
「それは、……よかった」

 一騎なりのお世辞かもしれないと一瞬思ったが、そもそも一騎はそういう器用な性質ではない。心底安堵した主人の内心を悟ったのか、ショコラが立ち上がって小さく尾を振る。甲洋はショコラの頭を撫でてやりながら、再び一騎に目を向けた。

「なあ、甲洋」
「何だ」
「お前の居場所は、ここだ」
「……一騎」

 コーヒーをカップに半分くらい残してコトリとカウンターの上に置くと、一騎が改まったように甲洋に目を向けてそんな事を言い出した。まるで何かに、挑むように。こういうときの一騎の視線というのはとても強い。とてもではないが勝てない、と思う。

「お前はわかってないみたいだけど、俺たちはお前が戻ってきてくれて本当にうれしいし、感謝してるんだ」
「一騎、それは…」
「甲洋。お前は、お前だよ。俺が、俺たちが知ってる、春日井甲洋だ」

 一騎はまっすぐにこちらを見る。甲洋も目が離せなかった。一騎の視線は、甲洋の中にある迷いや、自虐的な思いや、諸々の燻っている感情すらも白日の下にさらして、そして無くしてしまうような気になる。以前ならばそれはとても恐ろしいことだと感じていた。今でも、恐ろしい。けれども相手は一騎だと思うと、その恐ろしさがどこか和らいでいる気がした。それは、一騎の言葉が真摯だからに違いない。

「だから、そんなことをいうな。お前がそんなことを言ったら、俺は誰に感謝すればいいんだ」
「感謝?」
「お前、島を…皆を、守ってくれたじゃないか」
「一騎…」

 一騎は知っているんだ。甲洋はそう思った。理屈はわからない。総士から聞いたのかもしれないし、何かを感じていたのかもしれない。甲洋自身、一騎が以前とは違う存在になっていると感じている。ただ、そんな理由はどうでもよかった。

 一騎が知っていてくれる、ということだけで、十分だった。
 一騎は再びカップを口にする。少し冷めてしまったコーヒーを、一騎は大切そうに味わっている。ショコラが小さく鼻を鳴らした。

「ありがとな、甲洋。何度も、何度も俺たちを守ってくれて」

 甲洋は何も言えなくなってしまった。一騎の表情は、やさしい。まるで見たことのない表情をしている。けれど、いやではなかった。それどころか、こみ上げてくるものすらある。以前の自分ならばきっと、声を上げて泣いていただろう。
 互いに言葉を交わさない時間が過ぎる。それでも、甲洋は不快ではなかった。むしろどこか心地よかった。一騎の考えていることがわかるからでは、ない。一騎の言葉が純粋に嬉しかった。剣司や咲良にも言われて、総士にも言われて、けれど。
 何度も聞いた感謝の言葉だけれど。
 一騎のコーヒーカップはいつの間にか空になっていた。

「それから、おかえり。前はきちんと、言えなかったからな」
「一騎……」

 おかえり。そう、きっと、誰かに言って欲しかった。
 この時甲洋は悟った。何度も何度もこの喫茶楽園の扉を開いて、何度も、何度も。
 記憶に刻まれた思い出が噴出してくる。情のなかった両親、雨の夜、翔子、ファフナー、海の中、それから。
 優しい記憶と、優しくない記憶と、楽しかったものと苦しかったものと、人間だったころのものとそうではないものと、身体が覚えているたくさんの記憶が、一気に押し寄せてくる。きっと昔だったらば押し流されてしまっていたに違いないくらいの、たくさんの、記憶。
 甲洋は唇を噛んだ。ショコラは、気遣うように主人を見上げている。ドリッパーから一滴、コーヒーが滴り落ちる。ふう、と小さな息を吐き出した。

「……ただいま」

 ただいま。何度も繰り返した言葉。

「ああ、おかえり、甲洋」

 にこりと微笑んでくれる一騎が、そこにいる。
 ああ、ここは確かに優しい記憶が集まる場所だ。そう、思った。