shimmer

 きっと彼が自分を殺してくれるだろう、そう思っていた。もう自分になすべきこともない、だから殺してくれという願いもどこかにあったのかもしれない、理性ごときではもう止められない、自分の行動も、感情も、何もかも、もうどうにもならないと、その化け物が他ならぬ自分自身であるからこそ、思っていた。
 彼を悲しませることは本位ではなかったし極力避けたかったが、それよりも彼がもうこれ以上自分と関わらないで済むようになるというのならば最善の方法ではないが次善ぐらいにはなろう。それに、誰かが自分を止めるとすれば――殺されるのならば、他ならぬリジェイ・ホークの手でならば。自分勝手であることはよくわかっていた。
 関わらせたくないと思う一方で巻き込んでおいて、それは彼の優しさを利用した手酷い裏切りで、きっと軽蔑されるだろう。ならばそれでよかった。もう、彼にこんな風に迷惑をかけなくて済むし、だからせめて見下して、失望して、殺して欲しい。
 未だに彼に対する焦がれる想いは密かに、熾火のように燃え続けている――それが、最後の自分自身のもので、そして恐らくそう長くはもたないかもしれない、ならばそうなる前に殺して欲しかった。
 自分のやった事が「どのように」見られるのか、想像しなかったわけではない。皆、許すことはないだろう、おそらく彼も、否、許されてはいけなかった。

 だから最初は信じられなかった。次に、信じたくはなかった。これではいけないのだと思った。
 けれども最後には彼ならば自分を許すかもしれないと考えていて、その一縷の望みに縋っていたという自分自身の卑怯さに反吐が出そうだった。
 アンダースが考えていたよりも、リジェイのアンダースに対する信頼は驚くほどに深く、そして迷いはなかったのだ。
 何故もっと早くに真実を告げなかったのか。怒るわけでも悲嘆にくれるわけでもなく、どころかまるで幼子に「何故」と優しく問う親のような声でリジェイはその一言だけを呟き、アンダースの手を取った。
 同じ手で友と訣別し、或いは殺して、それでも、彼に迷いなどは片鱗も見出せない。魔道士達を守る為の激しい戦いの末、癒し手でも再生できぬほどの深手を負い傷ついた右目は、おそらく光を失うだろう。
 それでも彼は砕けた笑みでいつも通りの道化の言葉で語り、当たり前のようにアンダースの手を握り続けている。迷うことはない、いつでもそばにいる―アンダースに向かって一度だけ言葉にしたそれを、未だに律儀に守っていた。 

「テヴィンターへ行こう」そこならば、安全だ。静かに告げられた言葉が、物悲しさと寂しさと、そこに加えて少しばかり満ち足りたものを感じたのは、気のせいだろうか。
 思わず腕を伸ばして抱き締めた背中は温かく、けれどもなぜかとても小さな背中だなとアンダースは思った。不思議なほどに小さくて、幼くて、こうして抱えていてやらないと気づいた時にはいなくなってしまうのではないかという希薄さ―それは一瞬の錯覚だったかもしれないが、戸惑うように触れてくる指先がやはり、震えていた。ああ、彼がこんな風に子供みたいに怯えるだなんて。悪い冗談みたいだ、その癖絶対に泣き顔は見せない。
「私から離れるなよ」それ見ろやっぱりだ。冗談めいた口調で、けれども人の答えなんてものは求めちゃいない。
 リジェイに自分を選ばせてしまったという後悔と、変わらぬ穏やかな眼差しの底に僅かな悲哀が見え隠れしているという事実に胸が凍みるように痛んだ。
 同時に、こうなってしまっても彼が自分の手を離さずに、当たり前のように傍らにいてくれることに息が詰まる。それが喜びなのか、悲しみなのか、苦しさなのか安堵なのか、わからない。
 自分自身の感情も感覚も、どれが正しくて間違いなのか、どうすればいいのか、何をしたいのか――一つの目的を果たしてしまったアンダースの中には、なにもなかった。魔道士を救う、そう告げたリジェイの言葉はおそらく彼の言葉ではなくて過去の自分の言葉なのだが、まるで他人のそれに思えた。彼の言葉は正しくて、従うべきだと感じているのはいったいどこの誰の感覚かもわからない。
 けれども唯一、離したくはないという思いだけはとても鮮明だった。
 彼と共にでなければ、恐らく、もう、前には進めない、強く心の中で囁く声は、間違いなく自分自身のささやきだった。とても小さく錯覚した背中をたまらなく愛おしくて離したくはないと思う感覚は、正しいと信じる根拠があるように思えた。
 考えてみれば、カークウォールにきてからの記憶は、その大部分がリジェイと共にあるものだった。何の前触れもなく自分の前に現れて、特に苦にするでもなく当たり前のように魔道士という存在を受け入れ、共に生きようと少しばかり照れながら告げられた。彼は幾多の皮肉と戯言で覆い隠した不器用な優しさでいつでも魔道士を、アンダースを守っていた。迷いがないわけがない。文字通り傷を負うこともあったし、決して表には出ない内心がどれ程に痛んでいるかなどわからなかったが、彼は決してアンダースの傍を離れようとはしなかったし、自分の苦悩など一度も見せたことはない。何故、そんな彼を疑えるのか、何故彼の心を信じられなかったのか――否、だからなのだ。
 彼はどこまでも、どこまでも実直に、真摯に愛してくれている、だから何故、と思う。
 もっと他の、彼が望む幸せを共に享受できる人間がいるはずなのに、よりによってそれを放棄している自分を、どうして。彼に自分は相応しくはない。いつだって彼の望む幸せとはかけ離れていて、それを与えることも出来なくて、悲しませて困らせてばかりで、最悪の裏切りをしておいて。
 そうは思ったところで、結論はいつだって一つしかなかった。彼に傍にいてほしい。当たり前みたいに笑っていてほしい。冗談をいって、おどけて、大げさに驚いて、何をしても仕方ないと溜息をつきながら抱き締めて欲しい。無茶苦茶だ、自分でもウンザリするほどに繰り返した結論は溜息になる。自分は、きっと世界で一番彼に相応しくはない存在なのに。
「愛しているんだ、君の事を、」
 かといって言葉にしないわけにもいかなかった。言葉にしなければ、彼への募る感情すら――出会ってから積み重ねられてきた幾多の感情を言葉にするのは容易ではなく、何度繰り返しても足らないそれすらも、いつか朝日に解けてゆく夜霧のように消えうせてしまう、それは常に絶対的な恐怖としてアンダースの中に存在していた。想いが募れば募るほどに、彼との時間が重なれば重なるほど―それでも、傍らを離れることは出来なかった。それを疎ましく思う自分自身がいることを承知で、それでも尚必死に守り続けてきた、最後の居場所なのだから。
「ああ、知ってる」だからいいか、ここを早く離れるんだ。額を撫ぜられるや抱き寄せられて、顔を寄せて、額をあわせて、おどけたようにキスをされる。間近に瞬く緑灰の虹彩は、暮れゆく日の光を浴びて黄金に輝いているように見えた。「そういうことは、もう少し落ち着いてから、ゆっくりだ」それから。言いながら、リジェイはだいぶ使い古した一振りのナイフをアンダースの手に握らせてきた。
 意匠の施され魔法が込められた奇妙に歪んだそれは、ホークの名が刻まれたもの――彼が亡くしてしまった家族との、最後の繋がりだった。三年前、クナリ族との戦いで折れてしまったそれを、片時も離さず携えていたことを、彼と多くの時間を過ごしてきているからこそ知っている。彼にとってこの壊れたナイフがどういう意味かも、よく、知っている。
 時に他人の命を簡単に散らし奪い、時に彼が大切に思う人たちを守ってきたものだ。何よりも大切な思い出の品だ。
 これまでの、アンダースの不安(或いは期待)を裏切るようなリジェイの行動の数々を考えてみれば、彼がこうした行動に出るのは不思議ではないかもしれない。けれども、信じたくある一方で純粋に不思議で、歓喜と絶望はほぼ同じくらいの割合で思考を満たし、けれども受け取らないという選択肢は、既になかった。まだぬくもりの残っているナイフはずしりと手のひらに重たさを与える――抱え続けるにはとても重い、それでもこの重さがあれば己を失うことはないのかもしれない、という淡い期待を持てる現実的な金属の重さだ。
「これは、君の大切なものじゃ、なかったのか?」呆けたように見上げれば、アンダースが一番見慣れてそして一番らしいと思ういつもの――少しばかりおどけた表情で、リジェイは笑う。
「まったく、普段人のことを鈍いだの馬鹿だの言う割には、お前も大概だなあ」
 ああ、その顔だ。何年経っても変わらない、妙に得意げな子供っぽい笑顔だ。生々しい傷跡をもってしても、その魅力は喪われてはいないことに、アンダースはほっとしていた。安堵する、そう感じた瞬間に、思いつめていたものが一気に溢れ、目頭が熱くなる。この表情が、声が、仕草がすべてが日常で、どんな時でも傍らにあって、己を見失いそうになる度に思い出していたものだ。息が詰まって、言葉を失う。もう、この笑みは僕だけのものだ。ホークは大切なものを全部喪っても尚、ここにいる。笑ってくれる。どうしていいかなんて、わかるわけがない。泣くべきなのか、喜ぶべきなのかなんて、わかるわけがない。
「リジェイ」
 名を呼ぶと、一瞬だけ緑灰の眼が丸くなる。たまに、こうして名を呼ぶとまるで子猫みたいに驚いてみせるんだ、彼は。誰も、お前すら私の名前を呼ばないな、だなんて嘆いているものだからふざけて呼んでみただけだと重ねると、いよいよ本格的に拗ねてしまう。そういう処に呆れつつも愛しいと思うのだが、流石に今はよしておこう。ああ、こうやって軽口をたたいていると、自分の中の不確かなくせ心を焦がしてあらゆるものを消し炭みたいにしてしまう荒々しい感覚は、どこかへ失せてしまうのだ。
「これからは、そう呼ぶことにするよ」
 少しばかり不明瞭にそう告げると、リジェイの表情は奇妙なものになる。「嫌なら止めてもいいんだ」更に追い討ちをかけると、あからさまな溜息と、「いつもの」降参の合図―眉尻を下げて肩をすくめて両手をあげて、「悪かった」わざと口の中で聞こえないように呟くのだ。
「嫌というかな、久しぶりに他人の口から自分の名前を聞いたから、驚いただけだ」続く憎まれ口だって、説得力なんてものはどこにもない。くすぐったそうに、嬉しそうに細められた瞳は彼が肉親によく見せていた―そのまなざしを向けられる彼の肉親に対しアンダースが嫉妬していた、穏やかで優しい光をたたえている。心の苦しさは息苦しさになり、けれどもそれは心地よかった。
「僕は、ずっと君の夢を見ているんだろうな」
「それじゃあ醒めないうちに出発だ」夢でも騎士団連中に追われるのは面白くはないからな。言ってアンダースの腕を掴むと、リジェイは駆け出す。アンダースよりもずっと歩幅が広いから、それについてゆこうとすれば半ば引きずられるような形になるけれども何歩かして彼はその事を思い出し、少し歩幅を縮める。それもいつも通りで、この期に及んでも同じ事を繰り返すリジェイのことが、愛おしくてたまらなかった。力強く握られた手首は、今でもこんなにも熱く感じられる。

 願いは叶わなかった、今は――彼は、もしかしたら自分を殺してはくれないのかもしれない。けれども、遠からず自分は誰かに殺される、殺されなければならないだろう。ならば、やはりそれは彼以外には考えられない。
 そうでないのなら、共に生きてゆこう。こんな自分でも彼はそばにいろと言のだから。