ephemera

 不愉快な音のあばら屋に帰るよりはと言い出したのはベサニーだっただろうか。ならば首吊り亭だと特に打ち合わせることもなく、示し合わせたように皆の足はこの街唯一の「マシな」酒場へと向うのは当然の選択肢だ。
 埃っぽさと湿っぽさ、相反する空気が醸し出す、独特の臭い中を多くの人々がせわしなく行き交う。見れば、崖と鎖の街は初夏の夕暮れ時を迎えていた。カークウォールの夕暮れは妙に鮮明で、それでいて毒々しい。故郷のゆったりとした夕暮れとは大分違うそれにももう慣れてしまったが、好きになれるかといえば別の話だった。
 ふと、ベサニーのいつでもどこかせっかちでもつれかかっているような足音が止まる。彼女の視線は土壁と石の狭間にひっそりと揺られている、夕日を受けてより一層、まるで血のように鮮やかな色で揺れる一輪の花にじっと向けられていた。が、兄や仲間の視線が集中する前に彼女はふいと視線をそらし、その一瞬の遅れを取り戻そうとぱたぱたと忙しない足音で駆け寄ってくる。彼女が目に止めていたものを、どこかで強烈に記憶していた気がしたが、それが具体的に何なのかリジェイにははっきりと思い出せず、もやもやとしたものを抱えながら、首吊り亭の扉に手をかけた。

「この街には花が少ないのね」
「どうした?サンシャイン」

 ぽつりと漏らされた少女の言葉に応じるカークウォールの語り手の表情は至極真面目で、ちょっとした独り言を真剣に受け止められてびっくりした少女の瞳が一瞬見開かれ、やがて解けるように細められる。

「ううん、なんでもないの。ちょっとね、思い出してて」思い出して。そう言いった妹の言葉で、先ほどのはっきりとしなかった記憶が瞬時にして鮮明になる。そうだ、あれはヒナゲシの群れだ。初夏の夕刻、小麦畑の隣の鮮やかな色の群れ。あまり外には出ることのなかった妹が楽しみにしているもの。

「ほう、ヴァリックはフェレルデンに関しては不得手らしい」

 小さな溜息に潜む郷愁めいたものを嗅ぎつけたドワーフが頭の中で素早くセンスの良い冗談を組み立てきる前、リジェイは口を挟むことに成功した。

「オーレイの吟遊詩人なら、初夏の風に揺れるヒナゲシの姿をそれは情緒たっぷりに謳いあげているに違いない、サロン風に?いや、安酒場でウケがちな冒険譚に絡めたとしても、まあ、いろんな意味で外せない題材だろう」
「……ホーク。俺はオーレイ人でもなけりゃフェレルデン産まれでもないんだ。多くを知らないことをはっきりと言えやしない」
「ほう?それは初めて知ったな?人様の冗談みたいな出来事を悪趣味に飾り立てるのが得意のドワーフは、どこだ?得意分野は嘘と冗談だといっていたのは?」小綺麗に整えられた頭髪を小突く素振りを見せると、気さくさと馴れ馴れしさを売りにしているいっぱしの語り部の顔をしたドワーフはあからさまなため息をついた。

「もう、ふたりとも…ちょっとだけよ。誰にだって、そういうときはあるでしょう」ねえ、兄さん。黒い瞳が一瞬だけ悪戯を思いついた子供のそれになって、それからふいと翳る。彼女は故郷の話をしたがっている。ちらとヴァリックを伺えば同じことを考えたのか、小さく肩を竦めてベサニーを促すような素振りを見せている。
「ベサニー?」兄もドワーフに倣うように促せば、ベサニーは心得たとばかりに双眸を細めた。彼女が故郷のことを話すのは最近では珍しくなっていた。だが背教者として常に騎士団の影に怯え続けねばならない宿命を背負っている彼女の心情は、魔道士ではないリジェイには完全に理解出来るものではなかった。そういう息苦しさを共有するにしても、限度がある。ただはっきりわかっていることがあった。ききわけのよい妹はいつだって我慢ばかりしているのだ。

「この時期になると、日が長くなってきて少し汗ばんでくるでしょう。ロザリングはもっと暖かだった。けれど私はいつも家の中にいたんだもの、だからね、家の窓からいつも外を見ていたの。畑仕事をしながら汗をかいてる兄さんとカーヴァーを見てることもあったし、ずっと黄緑の小麦畑を眺めてることもあったけど…、畑仕事が終わって皆が家に帰ってしまって人影が少なくなった夕方、少し涼しくなって、月も太陽も空に一緒に並ぶ頃、帰ってきた兄さんに無茶をいってよく見にいったじゃない」一気に言葉を吐き出すと、ベサニーは息をついて葡萄酒で唇を湿らせる。

「ああ。カーヴァーは常に文句をいっていたな」
「カーヴァーは文句はいうけど楽しんでたんだから、ほんとはね。それにそういう時って、仕草も言い方も、兄さんそっくりだったのよ」

 小鳥が囀るように笑うベサニーの声に、今度は兄が顔をしかめる番だった。「あいつはいつでもベサニーにだけは素直なんだ」憮然としすぎていたのか、ヴァリックが声を押し殺して肩を揺らしている。ああ、これはまた彼の酒の肴にされるな、とリジェイは素直に己の失態を認め鼻を鳴らした。目敏く片目を瞑るヒゲなしドワーフの、なんとも小憎らしいことか。

「なるほど。サンシャインが言うような豊かな草の海や景色や匂い、そういうものはここにはないからな」
「ここが嫌いとか、そういうわけではないの」心の中のほんの少しのわだかまりを吐き出してしまったお陰か、少女の声は軽やかだった。「兄さんもいってるけど、もうここは私の一部だわ。けれど時々…ふと思い出すの。だって、あまりにも別々なものすぎるのだもの。私の中の記憶の色と、この街の色はまるで違う。どこまでも青かった空とか、紫と青と赤が混じって、それから絵の具を流したみたいに全部青色になっていって、そういう空の下でヒナゲシが草の中で揺れていて、昼間はあんなに真っ赤にキラキラ輝いてたのがすっと草の海に溶けていくところとか。静かに風といっしょに流れてゆく様とか、とても素敵なのよ」

 そこまでを一気に吐き出してから、彼女はうっとりと瞼を閉じる。ふっくらとした頬が少し上気していて、かかる切りそろえられた黒髪がわずかに揺れた。少女のてのひらの中で不規則に転がる葡萄酒の注がれたグラスが、光を受けて一瞬、赤く輝く。

「素敵だったの。兄さんは知らなかったと思うけど、それはね、とても…素敵だったのよ」

 草の海に浮かぶ赤い沢山の花。記憶していないわけではない。やはり憮然としたままの兄の顔を見て、妹はもう一度楽しげに目を細めた。


***

 楽しげに笑う妹の声が微かにどこかで聞こえた気がした。
 けれどもそれは気のせいだ。でなければこの街に根を下ろした亡霊の悪戯か、或いは魔道士の残した怨念なのか、はたまた職務を全うすることなく悪鬼に食われた騎士の嘆きだろうか。

 貧しくも幸せだった頃の記憶はひどく幽かで遠い。もう手の届かない過去のものとなって久しい――思い出すことも、殆どなかった。

 カークウォール特有の、湾岸から吹き付けてくる強い風に、ボロボロになってしまった街の一角にけなげに咲いている一輪の花の名前が思い出せず、リジェイは胃の腑の辺りになんともいえぬ不快感を覚えた。
 いや、だが。落ち着かない腹の辺りに力を込めて頭を振る。いや、そうだ、思い出せるわけがない。ここ数年は思い出そうと考えた事もない。もう、何年も前の埋もれた記憶で、それは色あせ、やがて灰となり空中に漂って消えてしまうような、不確かなものでしかない。
 けれども、風に揺れる鮮やかな色を目の当たりにしたとたん、まるで封じ込められていたことを恨んでいるかのように吹き出してくる妹の表情、言葉も、小鳥のさえずりのような声それらはあまりにも鮮明で、生き生きとしていた。
 驚くほどに明瞭な重さを伴い思い出される、些細で穏やかで、いつの間にか手のひらから抜け落ちていっていた日々の残滓に、リジェイはぞっとした。
 その一瞬の、まるで燃え尽きるろうそくがふと鮮やかに輝くような鮮明さは、もうそれらが戻ってくるわけではないという喪失の合図に他ならない。
 そして静かにそれは消えて行く。静かに弾けて砕けて、やがてなくなる。
 残るのはがらんとした空洞、当たり前の幸福を知っていたからこそ疼く、傷跡でしかない。喪った。それは、自分自身の選択の結果だった。受け入れたくはない事実だが、一方でリジェイはそれが真実だとわかっていた。故郷を失い、弟を失い、妹を失った。そして老いた母も、死よりも惨い仕打ちを受けた。それは全て己が間違いが起こした悲劇で、結果だ。ただ、それを認めることを密かに拒み続けていただけだったのだ。

 もう、ここに自分の居場所などはないのだ。例え一度街を救ったことがあったとしても、その手で今度は街を破壊したのだ。遠くから聞こえる悲鳴も、戦同然の傷跡が生々しく残る景色も、瓦礫と化してしまったハイタウンの景観も、カークウォールの秩序の砦たりえた教会も、すべて、混沌の渦の中に失われてしまった。
 だが、リジェイにとってそれらは大きな喪失感たりえることはなかった。もっと身近にあったものを失ったことが、失っていたと自覚してしまったことで均衡が崩れてしまった。重たく静かな絶望は、妙に甘い匂いを漂わせる―まるでこれは悪魔の誘惑のそれだ。かさついた口端を自虐的に歪める。

   ともすればかさついた地面を這うように追う視線が落ちた先には、まるで血を流したかのように染まってた。それは半分は夕暮れ時の鮮明な色彩によるものだが、事実この場所は、この土地はいつだって血を流し続けていたのだ。こうして背を向けてしまった今でも血を流し続けているのだ。昔から、染み着いた血の跡が乾ききらぬうちに引きずりつれてこられた沢山の奴隷の、沢山の血と嘆きとが礎となった、鎖に縛られて怨嗟の声をあげ続けている呪われた街だ。自分は、その街で英雄だった。そして祭り上げられた英雄は、結果としてこの街に残されていた最後の秩序も、理性も、なにもかもを破壊した。
 そうではないとしきりに首を振った仲間の表情ですら覚えてはいない。アヴェリンも、ヴァリックも、メリルもイザベラも本当は知っている、けれどもただ彼らはリジェイのことを友人として愛していた、ただそれだけのことなのだ。
 視線の先に揺れる妙に生々しい、夕焼けの中で不気味に紅く輝く花の名前は、当たり前のように知っていたものは、それは何だったのだろう。

――そうだ。私はただ守りたかっただけだ。
――ただ、大切な人たちと過ごす当たり前なものを、必死に、奪われないように。

「兄さんは知らなかったと思うけど」妹の、もう忘れかけていた大きな黒曜石の瞳が再び記憶の中で一瞬だけきらりと輝いて、楽しげに、少し寂しげに微笑む。けれども瞬きをする位の間に、さっと夕暮れどきの冷たい風にかき消されてしまった。

 「リジェイ」背中に気配を感じたが、リジェイは振り返ることはなかった。自分のことをファーストネームで呼ぶ人間は、カークウォールには、もうひとりだけしかいない。
 けれども、その声の主のことよりも尚、目の前で冷たい風の中で揺られている小さな花から、目を離せなかった。
 呆然となる「らしくない」リジェイの態度を不審に思ったのか、指によく知っている体温が絡んでくる。短剣を握り続けて血と汗に塗れて固まった指先を、やさしくほぐして絡められた柔らかな体温は、たどたどしく傷だらけのリジェイの指先をいとおしげに握り締めた。その傷も流した血の事も全て知っていて、受け止めるといわんばかりに。
 ゆるやかに感じられる他人の体温のお陰で、心の中で、思い出したようにちくりと棘が疼いた。
 だがその先から僅かな棘のことは飲み込んで、紅い花から視界を閉ざすことでリジェイは疼く痛みのことを考えまいとした。それはもう、失った過去の虚像でしかないのだから。
 もう喪ったものを想うまい、思い出すまいと決めていた。だが人間はそう便利に出来てはいない、特にこのカークウォールという呪われた街は、心の弱い人間には酷く魅惑的で残酷で甘い。だからこうして、全てが失われてしまった空虚な夕暮れ時に、ふとひょっこり懐かしい亡霊が美しく姿を現したりもする。胸の奥に幾多の刺が突き刺さる。それでも、もう、構わなかった。この痛みこそ自分が望んだものの結果だ。そして自分は流した血の代償として、この痛みを死ぬまで抱えてゆかねばならないのだから。
 自ずと、口端からため息が溢れ、僅かに自嘲に歪む。

「行こう。今晩のうちに、ここを出るんだ」

 振り向いてきっぱりと告げた言葉は、誰のためなのかもわからない。自分のためなのか、目の前のアンダースのためなのか。自分の中に存在し続けているだけの面影のためなのか。もう、区別する必要性を感じる事はなくなっていたという空虚さが、リジェイの中でかちりと音を立ててはまる。
「…けれど、…僕は、このままでは」目的を見失ってしまった者の危うさがアンダースにまとわりついている。けれどももう、彼が誰であるのかなどどうでもよいのだ。彼は彼だ。そしてその手を握り離す事が出来ないでいるのが、自分だ。単純なことだ。

「テヴィンターに行こう。あそこなら、逃げ込める」

 視界の端を掠める紅の小さな花の事も、名前を思い出せない事も。リジェイはもう一度瞼を伏せた。目を開けて最初に見たのは、リジェイが多分知っているアンダースの、不安げに揺れるはしばみ色の双眸だった。

「心配は何もいらない。言ったろう、私は死ぬまでお前と一緒だと」

 自然と表情が和らいでいた。けれども、リジェイの言葉にアンダースの表情がくしゃりと哀し気に歪む。それでも、もうこの手を離す事はないだろう。急速に抱き寄せた体温が腕の中で身じろぎをして、やがて糸がきれたようにふっと力が抜けた。

「私はいつだって、お前の味方だ」

 炎と灰の臭いに塗れてしまった肩口に顔を埋め、耳元にそっと囁く言葉が誰のためのものなのか。

 リジェイ・ホークというカークウォールの英雄は、全ての終わりにようやく手に入れた定かではない体温に額をこすりつける。温もりが滲んだ。もう、何もかもがなくなった。そういうことを実感した寂しさが津波のように襲ってくる恐ろしさに怯えるように僅かに肩を震わせると、たどたどしく背に回された手のひらがおっかなびっくりと触れ、続けて細切れに震える腕が、戸惑いながらも包み込んでくる。
 とたんに一気に胸が詰まり息が苦しくなった。こみ上げてきた言葉にはできないものについてしまった炎が勢いを増す。心の芯の部分が焦げ付いてしまいそうだった。息苦しさと口の中に広がる苦さに、リジェイはきつく、きつく唇をかみ締めて眼を閉じた。そうしなければ喉が干からびるほどに、叫んでしまうからだ。息を止めて、唇の裏を血が滲むほどに噛んで、見なければよいものを見ぬために眼を閉じた。

 そうすると、記憶の中だけにある羽毛のような安らぎを今手にしているのだと、思うことが出来る。
 何が正しかったか、間違えていたか、もうどうでもよいのだ。自分が最後に何かを、誰かに側にいてもらえたということをただ、静かに実感できればそれだけでいい。
 そういうことだけを、きっと望んでいたのだから。