砂礫 1(BOFIII)

 利き手にすっかりなじんだ剣からは血がとめどなくしたたりおち、柔らかな緑の草の上に赤黒いしみをつくってゆく。
 ふわっとした一瞬の無重力感。続けて、どっしりとした確かな重さ。全身をかけぬけてゆく激しい力の奔流はやがておだやかになり、徐々にきえてゆく。不可思議な高揚感はもはやすでにどこかへいってしまった。やがて感覚がゆっくりと戻ってきた。

 けれど、感情だけがまったくといっていいほどに沸き上がってこない。ただ、目にうつる事実だけが淡々と瞳を介して脳裏に、記憶にきざみこまれている。
 俺の中では全ての力を一気に解放した代償とでもいうかのように思考がいっさい停止してしまって、時間の流れだけが変わらずにながれていた。

 目の前に倒れている青年は、あらく呼吸をくりかえし、ときおりむせて赤黒い血をはきだす。助かるわけはない。

 男が足をもつれさせながら青年にかけよった。青年の上半身をその腕にかかえ、大声で青年の名を呼び、くりかえす。
 彼は、ひどくつらそうに顔だけをうごかした。男と、俺を見る。…俺を見ていた。
 俺をみて、苦痛に顔をゆがめながら微笑っていた。

 血に濡れた唇がわずかに動く。
 声にならない声。
 鮮やかな、完全に地平のかなたに沈んでしまう前のほんの刹那きらめくような紅の、神々しいまでの紅を宿したひとみ。
 すっかり生気を失ってしまった肌は、もう死人のような青白さだ。青白い肌と芯の強い紅がひどくちぐはぐな、けれども生と死のはざま、本当にわずかに残された、命の灯火がその一瞬に、あざやかに燃えあがるように。 

 微笑っていた。

 最期まで。


 本当は、かけよって傷付いた身体を抱きしめて子供のように泣きさけびたかったのは、俺だ。
 本当は、そんなことをいうんじゃない、すまない、…そんなふうにあやまって、顔をぐしゃぐしゃにして涙を流したかったのは、俺なんだ。


 だから、青年の命のきらめきが消えうせ、果てる瞬間まで、俺はまるで金縛りにあったかのように動かなかった。

 横たわる小さな生き物。
 それはただの、骸になりはてた。もうそこに、命の灯火はみえない。
 骸のそば、男が背をふるわせてしたたかに地面を殴りつけていた。行き場のない憤りと深い喪失感を、己の中で処理しきれなくなって、けれども俺の手前むせび泣くことなどはできないからだろう。ほんとうにばかだ。泣いてしまえば、楽なのに。でもそれが、そうして俺の目の前で泣き叫んでいるのが、なにも頼るものがなく世界にほうり出された俺を保護してくれた男。
 たったひとり、俺が家族と呼ぶことの出来る男。放っておけば良かったのに、それを見過ごすことが出来なかった人の好い虎人の男。

 こんな状態のこの男に声をかけても、逆上をあおるだけなのは火を見るよりも明らかだ。
 だから俺のそばに先ほどから立ちつくす少女が、何かいいかけたのにむかって軽く手をあげ制すると、何時までも自身を責めつづけている男とちいさな「竜」のむくろへと歩み寄った。

 歩くことでカサリとちいさく草がなる。こんなつくりものの世界、けっして自然にたなびく事のないやわらかな草葉、けれども生々しい血のにおいと、むせかえるような青臭さは本物だ。
 見上げてもそこにあるのは無機質な透明の天井にさえぎられた空とくっせつした光。
 けしてなにものも羽ばたくこともできない世界。
 青々とした木立が、いたいほどに目につきささる。それは、まるで悠久の大地にたいする冒涜に思えて、むやみに怒りのようなものがわきあがってきた。

 本当にあの女(ひと)は狂ってしまったのかもしれないと、思った。そこまで彼女を追いつめたのは一体何だったのか、そんなことを少しだけ考えた。

 俺が歩みよるのに気付いた男が、こちらを見上げている。いつでも感情をあらわに隠そうともしない、収穫を間近に控えた小麦畑のように燃えたつ黄金の毛に頭の先からおおわれた顔。わずかに開かれた口元からのぞく鋭い牙も、今はその鋭さをそっくりそのままどこかに置き去りにしてしまっている。
 なんという表情をしているのだろう。
 何年か前も、どこかでこんな顔を見たことがあったような気がした。
 さまざまな思惑がいっきにその顔にふきだして、それでも行き場を見失いぐるぐると渦をまく、そんな表情。
 男はしばらくほうけたように俺を見ていたけれど、ある一点を見るや否や、おぼつかない足取りで立ち上がり、その瞬間に感情が爆発したかのように憤りわめいた。
 どこか思考回路が鈍っていた俺は、その原因が、俺が先ほどから拭いもしない剣にしたたった血だと、男が一歩その場から踏みだし、信じられない形相でこちらに向かおうとしたことでやっとわかった。
 男の口からとびだす言葉は辛辣で、それは感情的になっている証拠であって決して本意ではないと頭ではわかってはいたけれど、ずきずきと直接鼓膜にひびく。男が言葉を吐きだせば吐きだすほどに、俺の表情がどんどんと頑になってゆくというのに。心のおくそこで、ちらと炎が赤と黒の舌をちらつかせてゆらめく。
 もっとも俺は、それをすぐさま打ち消した。
 この男の怒りは、泣けない分それを怒りへと変えているから。声を上げて泣くかわりに、憤りあわらに叫ぶ。
 泣けないのは、俺のせいだ。
 だからせめて、俺はその怒りも憎しみも哀しみもまるごと受けとめる。

 俺は黙って血をぬぐった剣を鞘におさめて金具でとめ、背中へと背負った。もう、しばらくは、必要はない。もう一度、あと一度剣を振るうべき相手は、たったひとり寂しくて、淋しすぎて気の狂ってしまった哀れな母。

 男をわざと意識から締めだして、ちいさな子供の竜の骸へと歩みよる。その態度が男の感情を逆撫でするのも、わかっていた。けれど、こんどは構わない。
 めのまえにぐったりと横たわる、黒く輝く紫色のうろこにおおわれた身体に、そっと、ふれた。ふれた瞬間、あまりにひんやりとしたその感触に、むき出しの指がすいついてはなれなかった。しかしそれはほんの一瞬。
 ゆっくりと、やわらかく愛撫するように指をつつ、とずらしてゆく。途中でどろりとした感触に触れた。それは赤黒い、すでに凝固をはじめた体液だ。いま腕に抱くそれが、かつていのちもつものとして躍動していたという、証拠。
 すべてのものの母にまで、その存在を否定された、神でもひとでもない生き物、竜族。それが、俺たち。
 俺たちがいくら戦を忌避しようとしても、俺たちそのものに戦が呼びよせられて幾多の血がながれる。
 元来ヒトはみな、力持つ者におびえそして恐れる。恐怖はやがて凶暴な強迫観念へとふくれあがり、集団は暴徒と化して異物を排他しようとする。それは、生きるものとしての本能。危機から自らをまもる為の、自衛手段。
 やさしすぎたおさななじみの親友でありちょっと年上の兄貴分は、きっと疲れてしまったのだろう。

 全てをうしなって。
 どこへもゆけず、なにもしんじられずに。

「帰ろうな、ティーポ」

 低い声でささやきかけて、すっかり体温を失いひどく軽いその身体を俺はそのままに抱え上げる。命のぬけがらは、本当に、おどろくほどに軽かった。
 男は、糸がきれてしまったかのようにわめきちらすのをやめて、俺を凝視していた。


 閑散とした、まるで死をにおわせる中空の都市からはるか下方に無限に広がる茶色の大地をみわたす。
 ひさしぶりに、大気に身体をさらした気がした。下方からつよい気流をともなって昇ってくる風がひどく心地よい。
 高い場所は好きだった。
 高い上空に身体全部をあずけてしまうとすべてのしがらみから、すべてのことがらからそのときだけは自由になれる。飛翔するには「本来の」姿にこの身を変えなければならない。それをふくめても、あの感覚は忘れがたい極上の刺激だし、本当にたった独り、何のしがらみもなくどこまでもも自由に、世界にたったひとりだけになったと思える。そんなものはもちろんただの錯覚だから、たまにで良い。……孤独の心細さも、あのどうしようもない空虚な感覚も既に知っていた。
 なによりこの力は、世界を焼きつくし破壊するためだけの力ではないのだから…こういう使い方をしたって、誰が怒るとかいう訳じゃない。
 けれど、ぽつんとこの虚空に浮かぶ「機械」じかけの都市は、刻が凍りついたようにひどく息苦しいだけだ。そこにはあの開放感も、あの自由も、あの刺激もなにひとつもない。

 がらんとしたからっぽの虚無が…、ものいわぬ人形のような「機械」たちと、いびつにつくり出された「いのち」の模倣品のかけらが…、そのいちいち一つ一つが母の狂気に彩られた愛情を象徴しているようで、ときおり全てを壊したくなる衝動にかられる事もある。
 そこまで考えて、俺は力なく首を左右にふる。一度だけ。

「そんなことを、するための力じゃない。そうだよな、ティーポ。俺たちは」

 応える声は当然のようにないけれど、そんなことはどうでもいい。どうでも、よかった。
 上空の強い風がまともにふきつけてくる。目を、開いていられない。
 まだ頭上にひろがる青空を、見上げることはできない。

 俺は、後方に控える仲間たちをふりむきもせず、小さな骸をしっかと抱いたままに力を解放した。意識がどんどんと高みに昇り、透明に、純粋になってゆく。このまま果てのない天上へも行けそうだ。
 きっと俺たちを生んだ神様は、俺たちを愛していた。
 だから、自由に空を翔る翼をあたえてくれたのだ。だから、しっかりと大地を踏みしめる足と、他の種をけして畏怖させぬもうひとつの身体をあたえてくれた。それで天の地のはざまより世界を自らの目で見ろと、そうおっしゃったに違いない。
 まばゆい意識の中、ぐるりと首をめぐらせる。同時に声を挙げた。既にもう、ヒトの「言葉」は必要ない。
 大気に満ちたやさしい声色が、ささやくように俺たちを呼んでいる。
 硬くひややかな偽りの地面を、すでに変生した後ろ足で強く蹴りあげた。背にひろく生えた翼に力をこめると、強風をふくんで、いっきに無重力の中にふわと舞いおどる。五感全てを全身に解放して、流れを感じた。

 そして一瞬、俺は、解放される。
 すべての悪意の言葉から。
 すべての呪縛から。


 だから今は一刻もはやく、コイツをこんな場所から引きはなしてやりたかった。