ゆめのすこしあと/冒頭sample

 将ボルキュスを討ち取ったことで、アテネス軍は一時撤退を余儀なくされた。
 互いに残された戦力は双方決して多くはなかったものの、元々の数からアテネス軍がやや有利ではあった。だが、ボルキュスの戦死、イオ、バデスなどの主力級の将の撤退に生き残ったアテネス軍側の士気の低下は尋常ではなく、その虚をついたサガレス大佐率いるクリシュナ残存兵がミゾラム要塞を奪還、どころかそのまま国境の向こう側へアテネス軍を押し返してしまったのだ。
首都を巻き込んだ戦禍は決して少なくはなかった。王都ビノンテンを守る城壁や門は悉く崩れ、美しかった街並みや見事に敷き詰められた石畳は破壊され、建物は倒壊し戦の爪跡は至る所に生々しく残されている。それでも先にアッサムの内乱に戦端を開いた戦は、互いに痛み分けといった形で終結を見るであろうことは、明らかだった。

 戦争の終結宣言まではゆかぬものの、アテネス軍撤退の情報が流れれば逞しい商人たちは徐々にビノンテンに足を向けたし、人々は瓦礫の中から元の生活を取り戻そうとする。大通りや広場などは次の日から瓦礫の撤去作業が開始され、動ける人員は官民問わず駆り出されていた。大掛かりな瓦礫を動かす戦闘に参加出来ないような半壊したファブニルや、中には動かせるからとアテネス制のラドゥンを器用に動かしている兵士もいる。そうした日々の末ようやく訪れた束の間の休息――大陸でも南岸に位置し温暖なクリシュナ王国ビノンテンも夏の盛りを過ぎ、大オアシスを抜けてゆく風も心なしか大分涼を含むようになっていた。

 ふらりと視線を彷徨わせれば、戦の傷跡がそこかしこに残る街並みの中にも、人々の息遣いが大分戻ってきているように感じられる。瓦礫も大分なくなり補修工事も順調で、以前程ではないもののこれならば行商人達が行き交う分には問題もないだろう。早朝という時間ゆえに動き出している人々の姿は少ないものの、街を包み込む空気が、あの戦闘の直後とは全く違っていた。
 目的地は、新しく作られた幾つかの墓が目立つ軍人墓地―その中で周囲と比べ供えられているものも簡素な墓。骨どころか遺品のひとつも入ってはいないからっぽの棺に祈りと鎮魂を捧げるだけの簡素な合同葬儀を終えて三日ほど経っただろうか。よく覚えていない。

――こんなものを捧げて感謝するようなヤツじゃないよなあ。

 手にした生花を眺めていると、わざわざ高価な生花まで買って早朝から墓参りという己の行為が妙に馬鹿馬鹿しいものに思えてきて、ライガットはため息をついた。

――といったって、手ぶらで墓参り、ってのも、どうもな。あいつの好物なんて知らないし、趣味もわからんし。

 日中は、というよりも目が覚めればライガットも城下で瓦礫の撤去作業を手伝っていた。魔力がないので大掛かりなーゴゥレムや工機を使う作業は出来ないものの、単純な力仕事ぐらいなら出来るし、そうして身体を動かしている方がずっと楽だった。
 窮地の祖国を救った英雄などと自ずと囁かれる戦いぶりを示した張本人が、汗水垂らしながらそんな作業をするものではないと言われたところで聞く性分ではなかったし、デルフィングがまともに動かせるようになるまでは城内で待機していても仕方ない。そうして昨晩も遅くまで作業をしていていたのだが、気づけば日が昇る前に目が醒めているのだから、長年培った性分というものはなかなか馬鹿に出来なかった。
 目が醒めてしまったものは仕方ないし、昨晩半ば酔っぱらいながら花を買ったという事実は覚えている。酒の席で盛り上がった末の行動だったような気もするが、そうしなければならないとどこかで考えていたのかもしれない。
 こんな朝早く、てっきり誰もいないだろうと踏んでいた軍人墓地、それも目的地に人影を認め、ライガットは僅かに眉をしかめた。こんな時間に同じ場所を目指すような人間に心当たりがあるとすれば、たった一人だ。
「早ぇな、おっさん」背中に向かって声をかければ、彼はゆっくりとこちらに顔を向ける。サングラスに覆われて見えない瞳が、ふいに揺れたように見えてライガットは目を瞬かせた。
「ああ」が、バルドはライガットを一瞥するのみで再び質素な墓標に眼差しを向ける。手にしている花を一度掲げ小さく溜息をついてから、ライガットは先客に遠慮するようにそれを置くと、軽く瞑目した。

「中身がなくても、墓は作れるもんなんだな…けど、それって当人にとっちゃどうなんだろうな?」
「ああ」皮肉のつもりではなく冗談めかした口ぶりにも、バルドは上の空で応じる。考えに耽っているのだろうか。寡黙なこの男が息子の墓前で何を思うかなど、ライガットにわかるわけもなかった。

「何も、形見になるようなもんも持ってこれなかったからなあ」ことさらに軽く言いながらしゃがんで、既に捧げられた小さな花束に遠慮するように、その隣に持ってきた生花を供える。

「……そうだな」
「今でも、よくわかんねけど…いや、きっとずっとわかんねえんだろうな。けどあいつ、悪いやつじゃあなかったってのは確かだぜ」
「ライガット」将バルドとしての威厳が揺らぐのではないかと心配を憶えるような、迷いと揺らぎのある声だ。どう接してよいのかわからない――苦悩と自責の混じるあの告白を、ライガットとて忘れているわけではない。

「いいやつだったかっていうと、ビミョウだけどなあ…」 

 朝の涼しげな空気の中に沈黙が落ちる。二つの人影は黙って墓石を見ていた。
 ライガットにしてみれば、ジルグほどわかりやすく、同時に分かり辛い人間というのもいなかった。欲求はひどく単純で幼いくせに、それを覆い隠す思考が発達しすぎている。学生時代のゼスに似ている気もするが、もっと分かり辛い。
「…あのさ」が、意を決して口を開きかけたそれは、慌しい足音によって遮られた。「ああ、ライガット、それに、バルド将軍!」
「…ナイル、どうしたんだよ」
「一大事なんだって!早く、将軍も、城に戻って下さい!あいつが……ジルグが…」
「ジルグが?!」
「生きてたんです、偵察兵が見つけて、さっき帰還を…」ナイルの要領を得ない言葉を噛み砕くよりも先に、バルドは駆け出していた。「将軍!ああ、もう…」一方ライガットは、その言葉の意味すらもよくわからず、呆然と立ち尽くしていた。

「…おい、ライガット」
「あ?…あ、ああ……何、だって?」ようやくという風に言葉を搾り出す。頭の中は真っ白だった。
「だから、今言った通りだ。今朝方帰還した偵察兵が、ジルグのヤツを連れ帰ったんだよ。死体じゃなく、生きてるヤツをな」溜息をついたナイルに小突かれても、ライガットは呆然としていた。