少しばかり慣れない味付けも随分と違う盛り付け方も、けれどもその鮮度のよさや調味の具合などから決して口にすることを拒んでしまうような類のものではない。食事は一日に二食。決して贅沢ではないにせよ、十分な量のもの。まして毒物であるはずもなく、仮にそうであるならば既にクレオはこの場でこうして食事をしてはいないだろう。そうする機会は、今までいくらでもあったのだから。
―――やっぱり、おいしい。
だから、結論はいつでも同じだった。この国の食べ物は、不味くない。どころか、おいしい。何度目になるかわからないくらい同じ結論に今晩も達し、クレオ・サーブラフは心の中だけでちいさく溜息をついた。
粗野で野蛮な文化を持つ下等な連中。文化程度も低くまして連邦に所属など許されぬ蛮族。軍人のみならず民間人ですら容赦なく殺すだけでなく見せしめにその死骸すら利用し、嘲笑う。そんな最低最悪のクリシュナという小国は、当然アテネス連邦の仇敵とクレオは認識してきた――してきて、いた。
今も、その思いは頭の中にはある。何よりも親友リィの仇で、憎い。けれど。
もくもくと咀嚼して飲み込んだこの食事に毒は入っていないことは確かだし、捕虜扱いとはいえクレオはクリシュナに来てからこの方、首都イリオスにいた頃とは文化的差異はともかくそれ以外はほぼ同様の人間らしい生活を送っている。外出は許されないが、この部屋の中にいる限りは余程非常識な――名門サーブラフ家の人間として振る舞い、かつ敵対行動をとらない限りはほぼ自由といってもよいような待遇だ。
食べ物もこの部屋の主王妃シギュンと同じものだし、味や香りは異なるけれど食後のお茶の味は結構クレオの好みのものだった。そういう理由があれば、戦争という状況に染まり切れていない少女が少しばかり敵国という存在の中に馴染みつつあるのも、不自然な話ではない。依然少女の中に友人リィの仇という概念はあるにせよ、クリシュナ王国首都ビノンテンでの不思議な捕虜生活は、かつての生活を懐かしむ余裕が許されるものだった。
―――そういえば、リィはお茶を淹れるの、あんまり上手じゃなかったけ。
とても自然に、クレオはその名を思い出した。口に含んだ香りがやわらかく広がる。ふと思い出した面影はとても鮮明なのに何故か懐かしい。
リィはほんとうに何でも出来たのに、いわゆる料理全般は苦手だった。こればかりはクレオに軍配があがっていたものだから、リィはそんなもの出来なくてもアテネスの軍人として何ら恥じることはない、だなんてどこまで本気かわからない調子で豪語していた。何でも出来る親友に存在するたった一つだけの弱点。その存在が妙におかしくて、けれどあんまりその事を言うとリィは本気で怒るので話題にはしないように気をつけていたけれど。料理とか、お茶をいれるとか、そういうのはクレオの役割になっていて、自分にもリィにしてやれることがあるんだという純粋な嬉しさと、ちょっぴり満たされる自尊心が混ざった感情を、クレオは久しぶりに思い出していた。
それが、とても懐かしかった。まるで、もう何年もこんな感覚を覚えていないような――
実際、もうリィとは二度と会えない。だから、リィに対してこういう感情を抱くことだって、ない。
もう面倒くさそうにクレオを引っ張っていってくれることもないし、軽口を叩き合うこともないし、笑うことも、小言をいわれることも、小馬鹿にされることも――最後にはいつでもしょうがないんだから、とため息混じりに苦笑して、前を歩いてくることも、ない。もう、二度と。
リィは、もう、いない。じわりと胸の中に広がってゆく影みたいな重たい感情が、重なりわだかまる。
じぃっと見つめる琥珀色の透明な液体の中に黒髪の親友の面影が――クレオが一番大好きだった、困ったようなリィの笑顔が浮かんで、消えた。
急に、鼻の奥がツンと痛む。お腹お腹あたりから一気に膨れてきた感情が喉通り越して鼻から抜けていって、クレオは思わず鼻を 小さく鳴らしてしまった。
「…クレオ?」
シギュンが、 透き通った空色の眼をじっとこちらに向けている。その声と目線が、クレオを現実に引き戻した。彼女と過ごした時間は決して長くはないけれども、感情表現が得手ではなくて愛想もない王妃がそれでも精一杯に"捕虜"の待遇を良くしてくれていることくらいはクレオにも理解できていた。
―――けど、この人は、敵。リィを殺したやつら…
唇を噛んで鼻を鳴らし、クレオは怪訝そうな――見ようによっては心配そうなシギュンの顔を、あえて強い調子でキッと見上げた。「何でも……ない、です…」ぽそりと呟くも、シギュンの他意が全く感じられない瞳は相変わらずクレオを見つめている。何だか妙な気迫とでもいうようなものを感じて、クレオは何度も瞬きをした。「何、でも…」
「そう」
シギュンは素っ気なく応えるが、依然クレオをじっとみつめている。まるでこれはききわけのない子供だ。年上のひとなのに、子供みたい。こうしてじっと相手を伺って様子を探る様子はなんだか故郷の母を思い出させる。そういえばお母さんも、考えてることがあんまり顔に出ないタイプだった。なんだか似てるのかな。なんとなく居心地が悪くて思わず視線をチラリと逸らすと、視界の端っこで金糸が揺れた。
「でも、あなたの顔、とても元気そうには見えない」
細い指先がクレオの頬をとらえる。シギュンは静かにクレオを見ている。クレオは思わず、手にしたままだったカップを置いて視界を閉ざした。
「そ、そんな、ことっ…」声が上擦って、これでは動揺していると素直に白状しているようなものなのに。またツンと鼻の奥が痛んで、リィの面影が閉じた瞼の裏で揺れている。
「………思い出していたの」
「お、思い出して、なんっ……てっ」
ふと、空気が動いて頬に触れている温かさが遠ざかった。恐る恐る目を開けば、シギュンは相変わらず至近距離にいるけれども、その視線はすでにクレオにはなかった。
「別に構わない。この部屋には私しかいないから」さりげにお茶を注ぎ足すシギュンの表情も言葉は素っ気ない。けれど、突き放したような冷たさもない。
彼女は、クレオを自分の部屋に招いてからずっとそうだった。表情の変化に乏しい人だし、唯一の例外を除けば殆ど感情を出したりはしないけど、その心根はとてもやさしいひとなのだ、となんとなくクレオは思っていた――彼女が敵国の王妃だという現実を、今自分がいるのは敵国クリシュナであるという現実とともに少しだけ、忘れそうになるほど。
そうでなくともクレオは疲れていた。あの戦闘のこともある。首都イリオスを発ってからこれまで、あまりにもいろいろなことがありすぎて――それが、軍人として戦争に参加する、戦うということなのだと思い知り、必死でゴゥレムを駆り、それでも自分がイリオスに戻れなくなるなどとは想像もしていなかったのにアルガスがいなくなりリィがいなくなって、そして――。
「安心して。彼女は、クリシュナ式ではあるけれど、きちんと埋葬した。勿論、兵や民と同じようにはできなかったけど」
「……えっ?」ぽつりともらされた言葉、その意味に、クレオは思わず目を見開いてシギュンを見上げる。再びかちあう透明な視線がほんの少し揺らぎ、ふわりと微笑んだ。
「死んだ人間を辱めるような真似は、誰も望んではいないから」
「そ、それって…あの、…リィの…」
クレオの問いに、シギュンは眉尻を僅かに下げただけだった。
「彼女は自害したと聞いてる。アテネスの…ゴゥレム乗りとして、…死んだと」
「………リィは……」心臓を、ぎゅっと掴まれるような感覚。クレオは思わず膝の上できゅっと手のひらを握り締めていた。
「あなたとは、年頃が近かった」
「…リィは、私の……大切な、…ともだち、で……」
「そう」
「……私、いつも、リィの後ろばかり、…私、…」私はリィの後ろにいれば安心できたし、リィが私の手を握っていてくれれば何でも出来るんだっていう気になっていたし、急に、だから急にリィがいなくなったっていうことが理解できなくて、理解できないから、たぶん、考えなければいいんだって、そういう風に思っていて――胸の中で言葉を続けていたクレオははっとなる。
「私、リィの仇をとることばかり、考えてた…だから、リィを弔うって、そういうこと、考えてなかった…」呆然と、クレオは言葉を吐いた。そうだ。今シギュンの言葉で思い出したようなものだ。リィはアテネス兵として誇り高く死んだ、彼女の気性をよく知ればそういうことは疑ってはいなかったけれど、その後のことは。きっと死骸すら辱める、クリシュナの蛮族に、そういう風に考えて怒りを保っていたけれど、事実を確かめようとしただろうか――機会はいくらでも、あったはずなのに。
「クレオ、大丈夫。ここには、私しかいない」
顔がカっと熱くなる。クレオは再び瞼を閉ざした。悔しかった。悲しかったし、恥ずかしかった。溢れた感情がそのまま洪水になってしまいそうで、きつく口を結んで体を強張らせる。けれども、そんな事をしても目の奥は熱くて溢れてくる感情も涙も、決して止まってはくれない。
ぽろぽろと瞼の間からこぼれてくる熱いものが頬を伝って、硬く握り締めた拳に落ちてゆく。「……ぅ、……」
ごめんなさい。ごめんなさい。リィ、ごめんなさい。
溢れてくるものが、止まらなかった。シギュンは何も言わない。ふわりと香ってくるやわらかなお茶の香りは優しくて、しばらく涙が止まりそうもなくて、クレオは声を必死に堪えながら、肩を震わせていた。