「おい、お前」
たまたま、それは本当に偶然だった。陸軍所属のマリクが政府塔の研究階層を訪れるという事自体が稀だが、更にそこで不審な人影を見出したのは何れの采配か。マリクの姿を見つけたとたん脱兎のごとく逃げ出そうとする男に追いすがるや背後から羽交い絞めにし、喉元を腕で押さえ込む。抵抗らしい抵抗も出来ないところを見ると実戦部隊や間諜部隊所属ではないのだろう。
「ぐ…は、離せ……」
「さてな、お前の所属姓名洗いざらい素直に吐いてくれるというのなら、一応考慮してやる」
男は何やら包みを抱えている。どうやら、死んでもそれを離すつもりはないらしく、マリクに拘束されても尚それを離そうとはしない。軍人として最低限の身のこなしすらろくに出来なかったのはそれも理由なのだろうが、ここが主に兵士が扱う銃剣や銃器開発のための階層であれば、一体この男の目的は何だ。ストラタやウィンドルなど他国の諜報員がこのザヴェートに入り込んだという知らせは聞いてはいないし、そういう気配も政府塔内には皆無である。また、仮にそうなのだとしたらフェンデル高原や警備網を突破した凄腕ならばこのような失態を犯すはずも無い。
「じ、自分はただ……」
間諜の可能性は相当低いと踏んだところで、マリクは気付いた。この男の制服の胸元の紋章だ。政府塔上層への出入りを許可された者だけが身に着けることを許される、フェンデル軍の象徴たる紋章に細かな煇石を嵌めこんだものである。所属により些か形状の異なるそれは、男が技術部に所属しているということを示していた。
「技術部の所属か…不思議だな。自分らの持ち場で、何故こそこそとする必要がある?」
さては、リジャール中将殿の手の人間か。友人カーツからは何度もその名を聞いていた。大煇石開発に関わる全ての最高責任者リジャール中将といえば、陸海軍でも名を知らぬ兵はいない。何故なら、実戦で唯一無二の相棒たる武器を開発しているのも、リジャール中将配下の技術士官たちであるからだ。
が、カーツのみならず複数の技術士官らの話を総合すれば、中将の評判は悉く悪い。最低であると言っても良い。彼が伝説のアンマルチア族と何ゆえかの縁を持っており、だからこそ現在の彼の地位があるといっても過言ではなかった。曰く、遭難しかかったところを助けられたというのだが、そのような子供の御伽噺のようなものを誰も信じてはいない。彼がアンマルチア族が住まっているというザヴェート山にしきりに兵を派遣していた事も周知の事実である。雪上訓練であるなどと嘯き他の部隊から装備丸ごと奪ったという噂もあり、技術部のみならず特に陸軍では評判は底辺にあるような男だ。
マリクが飲み込んだ言葉を察したのか、男の顔色が蒼白になる。それが何よりの答えだが、同時にこの男が工作員としては程度が低いことも表していた。なるほど、リジャールという男に人望がないというのは何も噂だけではないようだ。幾ら握らされたのかは知らないが、上官のために死のうなどと覚悟している人間はそう多くは無いのだろう。
「ふむ」
力の無い小男が後生大事そうに抱えているものを奪うなどは、実に朝飯前であった。マリクが急に拘束の腕を緩めるや、呼吸器に急に酸素が送り込まれた男は咽ながら冷たい床に転げる。男が雑音の混じるような呼気を吐き出している隙に、マリクはその鳩尾を思い切り蹴り上げた。
「ぐはっ……」腹部への衝撃に堪えきれず、男はその場にどさりと倒れこむ。それでも片腕で包みを離さぬ根性は認めても良いが、こうなってしまえば奪うのは赤子の手を捻るようなものである。マリクの丸太のような腕がぬっと包みに伸ばされるや、それでも男は包みを抱えなおそうとするが更にそこに追撃の鋭い一蹴が襲い掛かり、果たせない。
「……新型か?」
見たこともない型式が包みには記されていることからマリクはそう断じた。重さや砲身から判断すれば狙撃用のものだろうか。狙撃銃などは、ごくごく一部の特殊部隊以外には配備されない。いわゆる狙撃部隊、煇術砲兵隊などだが、何れも陸軍よりは海軍に多く、対ストラタ海軍を想定して編成されている部隊だ。ベラニック奪還戦の折に目覚しい戦果を次々と挙げた陸軍に対し、補佐的役割しか果たせなかった海軍連中は気に逸りウィンドルに対する更なる侵攻を提唱している。成る程、海軍の新たなる中核兵器の一つというわけか。
だが、何故それを技術開発参謀たるリジャール中将が、密やかに入手する必要があるのだ。
深い溜息と共に見下ろした男が、口を割るだろうか。兎も角、すぐさま解放するわけにもいくまい。だが、面倒ごとになる、とマリクは思わなかった。むしろ、この男が第六開発部の階層に居たという僥倖を父祖に感謝したいくらいだった。
政府塔地下へと続く階段はそこかしこから漏れている蒸気とそこから錆びた金属の腐臭が混じり、無数の水滴が壁にびっしりと付着し不快な空気が満ちている。基本的に政府塔内はエレベーターで移動するものだが、緊急時にはこの階段を使用する。とはいえたまにしか使われぬ階段にまで手入れが行き届いているかといえばそうではなくて、所々の金属は腐食し崩れているし、暖房も殆どの箇所が駄目になっている。フェンデル帝国の象徴ジレーザ、その天空高く聳える堂々とした外観とは裏腹に、内部を見れば既にまともに動かなくなって久しい蒸気装置であるとか、再生の利かぬ煇術回路などが無造作に棄てられていたりもする。実に、フェンデルという国の象徴らしい姿だとマリクは思う。
放っておけば、何れこの国はこの錆び付いた階段のように、蒸気熱と原素に蝕まれて腐食し朽ちる命運を辿るしかない。ベラニック領を取り戻したことで弾みをつけたのか、軍事増強を殊更に謳う上層部も、領土の更なる拡大にやっきになる軍部も、決して足元を見ようとはしない。無茶な生産計画を工場に押し付け、昼夜を問わず稼動するがしかしその現場では暖房のための原素すらも制限されている。作業員達は凍傷と飢えの狭間で、それでも領土奪還を唱える総統の言葉を祈りと携えながら課せられた仕事をこなすしかない。物資調達を名目にストラタ領海侵犯を犯しながらも先に攻撃をさせることで正当性を無理矢理に主張し、彼らを拿捕し労働人員と物資を補給することが新兵の初陣である。或いは、ウィンドル王国騎士団の残党狩りのためのベラニック周辺の偵察だ。ベラニック領を取り戻したばかりであればこそ、物資は何もかも不足しているというのが現状なのだ。かつての版図を漸く取り戻しても尚、誇りとは無縁の略奪行為をこの国は正当化し続けている。
自分達の立つ氷の大地は揺らぎ、崩落しかかっている事に見て見ぬ振りをしている。
青臭い正義感だ、考えなしだ、そういう言葉を友人から何度も言われ、諌められたとても、マリクの中に芽生えた沸々と湧き上がるものは輪郭をより一層明確にするばかりなのだ。捕えたウィンドル兵から奪えるものを全て――その精神に根差すものまでも奪い、そして労働人員として最も過酷である地下へと押し込め、利用しつくして殺すようなこの祖国を、祖国とは思いたくはない、そう感じたことも一度ではなかった。だが、白と灰色に閉ざされ鉛色の空を抱く場所に戻ると、どこかで安堵する。大煇石のお陰で過酷な環境下に置かれようと、ここに息づく人々の姿も、またここで生まれ育った自分自身のことそれらまでを否定は出来ないのだ。孤児だった自分を育ててくれた老いた義父母も、そんな自分達家族を励ましながら支えてくれた人々も、帝国臣民であることに誇りを抱いている。だから、マリクは士官学校に入りこうして今は軍部で将校を務めるまでになっている。
ならば、変えれば良いのだ。国を、この歪で不恰好な、侵略と言う暴力でしか豊かさを見出せぬ、フェンデル帝国の生き方そのものを。
「マリクさん、本当にいいんですか」
「ああ。俺は本気だ」
「ですが、こんな方法であの人を仲間に引き入れたとしても……恨まれるだけでは」
計画を密やかに打ち明ける気になったのは、彼が自分と同じ思いを抱いているのだとなにげない談話の中ぽつりと漏らされたからである。最も、この配下として宛がわれた訓練中の士官候補生はマリクの胸中を最初から知っていたわけではなく、彼自身から自ずと出た言葉だった。だから、その言葉に己もまた鼓舞された気になり、マリクは答えた。「ならばやってみるか」最初は驚いた風であった青年は、だが次の瞬間には真顔で頷いた。
大分臆病で思慮に優れる彼は、それからマリクと行動を共にすることが多かった。例の押収した新型と兵士にしても、すぐさま実行せねば騒ぎになるであろうことを考慮して、やはり彼に相談することにした。士官候補生といってもピンキリだ。そして、彼はひどく優秀な士官になるだろうという確信がマリクにある。他に何人か宛がわれた連中と比べても明らかに抜きん出ていた。
そうして情報を集めた結果、この新型は友人カーツが主体となり開発しているという確証を得るに至り、マリクは決断した。
友人カーツが、開発現場で難しい立場に在ることは再三聞き及んでいる。酒の席で上層部への不満を彼らしからぬ様子でぽつりと漏らすことも増えた。そしてあのリジャールという男が居るかぎり、友人の苦悩は解決はされまい。かといって、アンマルチア族との縁もあり先のベラニック奪還戦で大規模な戦果を誇った第一技術部隊大尉が彼の直接配下の人間である以上、総統閣下はかの男の首を切るとも思えない。現在、新兵器である蒸気機関戦車を扱うことが出来るのは、彼の部隊の人間だけなのだ。
カーツのフェンデルに対する感情を誰よりも知っているのは、このオレだ。士官学校で共に歩んだからこそわかる。寡黙で無愛想な男だが、だからこそ内に秘めている熱は誰よりも大きい。あの男の憂国の想いこそ、マリクが考える改革運動の要たりえる強さを持つ。強き鉄のような男、事実彼の名は実戦部隊では有名だった。何度も試作と運用を重ねたであろう彼の銃剣は、驚くほどに扱いやすい。リジャール中将などという男の下で黙々とただ煇術銃開発さえ可能であれば良い、そう断言するカーツだからこそ、喉から手が出るほど欲しいのだ。
マリクは、自分が感情に逸り易いという自覚があった。それでも、この改革の志に関しては思慮に思慮を重ねたつもりではある。だが、それでもまだ足りない。成る程感情に逸り易い分行動力という点でマリクは指揮官連中にも評価されている。が、些か短絡的過ぎるという批判も何度か受けていた。その点カーツは、士官学校時代からの親友は、全く逆の性格だった。思慮が過ぎてあのような中途半端な役職に置かれずともよい苦労をしているのもその性格がしてであったが、これからマリクが成そうとしている事は、そんな友人なしには考えられない。
現政府に叛乱を起こす――何れはクーデターという直接的武力行為に出る。そうする為には多くのものが必要だった。何より、後ろ盾などは皆無である。だからせめて、それらを成す知恵が必要だった。小さな叛乱では、無意味だ。上層部に、総統に、自分達の主張を、叫びを知らしめ認めさせなければ意味は無い。
カーツが、実は実戦及び戦略面でも並々ならぬ才を持っていたことを知るのは、士官学校の教官や同期の一部だけだ。武器を持っての戦闘訓練では、結局勝敗はつかなかった。戦術戦略という方面では、恐らく勝てない。
知らず階段の手すりを握り締めていた手に力を込めると、腐食して朽ちかけていたそれはいともあっさりと、折れてしまう。マリクは、手の中に残った金属であったものの残骸を、じっと見つめた。
まるでこの国の現状のような色をしてやがる。赤く錆び付き元の色も判別出来ない。
「そうだな。もし、それであいつが俺を恨み軽蔑する、というのなら、それはそれでいい」
金属の残骸を握り締め、手の中で崩れる感触を覚えながらマリクは目を上げた。
「だが、それでも必要な男だ。簡単に自分の居場所を変える気はない、そういう気概があるなら尚更に、な」
それで駄目ならばそれまでということだ。覚悟が伝わったのだろうか、青年はごくりと喉を鳴らして、それから頷いた。
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