『何故?何故だって?そんなのは…自分の胸に手をあてて、考えてみればいいじゃねえか、ノイス』
そういうと、友だった男は、ゴミでも投げ捨てるように、錆びたコインを放った。コインは音を立てて、石畳の上に転がる。
ノイスはそれに、手を伸ばそうとした。だが、その目の前で、男は、それを、踏みにじった。
ノイスは、男をなじることが、出来なかった。
あの男は、幼馴染だった。ネヴァサの下町に生まれて、常に二人で行動をしていた。
まだ、二人とも幼かった頃。
常のように往来を駆け回っていた二人は、路上で、不思議に輝くコインを見つけた。それは、デインで流通している硬貨ではなく、ラグズが使う硬貨だった。使用している金属そのものが違い、見たこともない文字が刻まれているそれは、少年の好奇心を強く刺激した。
デインで彼らの姿を見ることは、稀だった。見るにしても、クリミア国境付近に稀に出没する程度である。デイン人は、兵役に志願する者を除けば、殆どが彼らの姿を目の当たりにすることなく生涯を閉じる。ゆえに、恐らくはクリミア商人あたりが、落としたものだろう。
交通の要衝として、古来より-デインという国が作られるよりも前から、ネヴァサという街は各国の人間が雑多に出入りしていた。もっとも、王城を中心とする内側と、商都としての外側とは、高い壁と二重の堀でもって、区切られてはいたが。
少年二人は、見たこともないコインに目を奪われ、すぐさまそれを宝物にした。そして、約束をしたのだ。
コインがちょうど二枚。こっちはおれ、こっちはお前だ。これは、おれたちの、秘密の約束だ。
言い出したのは、ノイスの方だった。ノイスはネヴァサの内と外を隔てる高い壁を見上げ、つぶやいた。
いつか、ふたりで、この壁を越えていこう。越えられる、おれたち二人なら。
二人の少年は、夕暮れの高い壁に向かって、同時に頷いた。
王家ご用達の商人もしくは、ギルドの顔役、或いは軍人でもなければ、『向こう側』に行く機会などはない。だからそれだけで『向こう側』に憧れる少年は多かった。デインという国は、実力さえあれば、ベグニオンやクリミアのように生まれ育ちが全てを決めるわけではなかった。
そして十数年の月日が流れる。当時の約束が心にあったかどうか、それはもう覚えてはいなかったが、互いに持ち前の向上心でもって、財を築き上げた。互いに、互いがいたからだ、男はよくそういってノイスの肩を叩いたが、しかしノイスは、いつしかそうは思わなくなっていた。
男は、いい奴だった。人当たりも良く、実直で、よく信用を得ていた。だが、やり方はぬるかった。ネヴァサという街で、商人が生きてゆくことすなわちそれは如何にして自分たちがこの商業都市で名を成せるか、そういうことだった。だから、そのためならば、友人を裏切る、ということも実に日常茶飯事で、騙されるほうが悪いのだ、ノイスは常々そう考えていた。
「なぁ、ノイス。この話は止めよう。いや、もう、やめよう。別に、いいじゃないか…もう俺たちは十分やったよ」
散々、段取りを組んで、いよいよ取引のその場が整った。ベグニオンに出発する準備も整った。まさにそういう時だった。
男が、あまりに煮え切らない態度を取るので、ノイスは何故かと問い詰めた。今までも、危ない取引などは数知れずやってきていたし、危険性が高ければ、それなりに見返りも大きい。短期間で成功してきている裏には、ネヴァサでも非合法な取引-麻薬、人身売買、ラグズ奴隷などを扱う、通称『闇』と呼ばわれている組織より、何度か仕事をもらっていたからだった。関わったのは間接的ではあったが、それでも儲けは段違いだった。特に、数年前から流通しだした麻薬は、莫大な利益をノイスの懐に転がり込ませた。今回の仕事も、『半獣狩り』で捕らえたラグズ奴隷とデイン山間部でのみ収穫される麻薬を、ベグニオン帝国の元老院議員らに売りさばきに行く事だった。麻薬ならばノイス。『闇』市場では、近頃その様にまで言われていることを知り、ノイスは愉快な思いだった。
「何言ってやがる、これは、あちらさんから持ちかけてきた話だ。第一、初めてじゃねえ。今更だ」
「けどな…お前、コレが何か、わかってるのか」
「分かってる、自分の商売道具だからな。別にいいじゃねえか、これで何人イカれようが、死のうが、俺らには関係ねえ。俺らにとっちゃ、これは金塊だ。そうだろう?」
何故、今になってこいつはこんな甘いことを言い出すのか。ノイスは歯痒く、そして男の言いたいことを理解する気が全くなかった。だから、男が黙って口をつぐんだ時に、ちらりと視線をそらしたことにも、気がつけなかった。
異変が起きたのは、夜半過ぎだった。おかしな物音にノイスが気が付いたとき、既にラグズ奴隷は逃亡しており、麻薬は馬車と共に消えていた。どういうことだ、とっさに、身辺を探る。何も、なかった。そして、鼻先に鋭利なきらめきをつきつけられ、ノイスはそこで初めて自分がハメられた、と知った。
「あんた、調子に乗りすぎたんだよ。わかるか?上納金をハネてたことくらい、とっくに気付いてたさ。あんたの相棒の垂れ込みでな。けど、まあ、そう簡単に尻尾出すまいと思ったが……なるほどな。取引先の隠し方は、見事だったよ、まさか買い手が元老院じゃあなく、デインとベグニオン双方で売人を使って足つかねえようにとはな、調べるのに時間がかかっちまった」
言いながら刃を押し付けてくるのは、『闇』の一員の証に右手の小指の爪を真っ黒に染めている男だった。小物ではない。
「何を……」
「だから、あんたの相棒だよ。昔なじみだって?まったく、いい相棒だな。お陰で俺たちは、あんたに上前ハネられずに済む、ってわけだ」
とっさに、ノイスは見慣れた顔を捜した。だが、中肉中背の人のよさげな顔は、闇の中どこにもいなかった。
死ぬ思いをして、それでもなんとか、ノイスはネヴァサに帰り着いていた。
『お前みたいな小物を殺しても仕方ない。二度と関わらなきゃ、好きにすりゃあいい』ノイスに圧倒的な恐怖と絶望とを味あわせた男は、ノイスの左手の甲を貫き、肉をえぐったのみで立ち去った。左手の痛みに耐えながらも、だが、何故かノイスはネヴァサに戻ってきていた。まだ、信じられなかった。だから、その手には唯一奪われずにいた、あのコインが握られていた。
見慣れた場所に、確かに男はいた。だが、ノイスの姿を見るなり、その表情が激変した。
人懐っこい笑顔が失せ、見る見る間にそれは侮蔑の表情に変わっていった。
『何だ、生きていたのか』
そして、男は一言、そう言った。
王都ネヴァサとは、こんなにも、汚い街だったのだろうか。無気力に路上に座りながら、ノイスはただぼんやりと辺りを眺めていた。こんな生活を始めて、どれくらいになるだろう。街の活気が、憎らしい、そういう感情もどこかへ失せてしまっていた。
たった一瞬。本当に、一瞬にして、ノイスは全てを失った。
友だった男の言葉も、思い出せない。その名前すら、記憶にうずもれていっているようだった。あえて、記憶を消しているのかもしれなかた。
食欲などもわかず、腹も空かない。うつろな目で、空を見上げると、視界にはいやに青い空と高い高い壁が入り込んでくる。
ああ、あんなものも、この街には、あったな。
何の感慨も、浮かばなかった。
寒さに震えながら、貧民窟を徘徊する。昔は、そんな人間を見下し、よく嗤ったものだった。自分たちは明らかに連中とは違う。だから、気まぐれに施しなどを与えては、彼らがそれをむさぼる様子を、嘲笑しながら眺めることもあった。それは娯楽だった。
だが、今は違うのだ。立場が全く逆転していた。自分はその、見下される側であり、嗤われる側である。嗤われながら、それでも見苦しい真似をして糧を探さねば、死ぬのだった。
死ぬことが恐ろしかった、とは、思わない。だが、飢えの苦しみが、身を苛むことが、つらかった。いっそ喉を、心の臓を突いてしまえば、死ねる。だが、ノイスはそのような安易な手段に逃げようとは、なぜか思わなかった。
その気力すらも、沸いてこなかったのだ。文字通り、抜け殻だ。
そういう思考すらも、ノイスの頭は止めていた。

Comments