『あ、あの…』
弱々しく細い。戸惑い、不安。懸念、疑念。そこに交錯する感情は、おおよそが否定的なものに属している。だが、オルグは振り返った。
狼――こちら側の世界では、存在すらが伝えられていない幻のラグズ、犬というには獰猛で理知的な眼に、ペレアスはわかりやすい程に狼狽した。
オルグは、両の目を細める。デインというベオクの国の、先代国王の落とし胤。ミカヤの出会った、光という存在。抽象的だが、彼女の言わんとしていることくらいは、ハタリ女王の側近であれば理解も出来る。国というものには王が必要であるし、そういう因縁を持ってこの青年はこの場にいるのだ。確かに足りないものは多い。だが、ニケ曰く面白い王になるやもしれぬ、女王にそういう笑みをもたらす、一見すれば気弱でおどおどとした頼りなげな青年を、ハタリの民はじっと観察した。
声をかけたはよいものの、何を言うべきか迷っているのか。ペレアスは口を開いたり閉じたりと、落ち着かない。何度も瞬きを繰り返すが、けれども視線は控えめにオルグを見ていた。怯えながらも、逃げてはいない。
そしてその口にした言葉は、こちら側では既に古き言葉と成り果てたものだった。それを解する者は、希少だともいう。
『何か、この私に聞きたいことでもあるのか、王子』
ペレアスは、息を呑んだように見えた。顔色も、変わっている。その様子から、明らかにオルグの言葉を理解している。
『…ハタリとは、テリウスで理想郷、という意味を持つ古き言葉で、…』
オルグに問うている、というよりも、己自身の知識に照らし合わせている。そういう言い方をペレアスはしていた。オルグは、若きベオクの言葉にじっと耳を傾けている。
『では何故、死の砂漠という最果ての向こうに、…理想郷、などという名の国が、あるのか…ただ、そういう事が、気になった、ので』
たどたどしい物言いは、怯えと不安によるものだろう。言葉を選ぶにしては、ペレアスの物言いは確固たる目的があるように伺えた。国の成り立ちを、このベオクは知りたいのだろうか。それとも、二つの種族が交わるということの結果をか。或いは、その何れもか。オルグが見るペレアスという一人のベオクは、そう気にかかる存在というわけでもなかった。だがミカヤはペレアスを光なのだと言い、解放軍というものに属するようになってから、彼女は見違えていた。魔道を操る言葉は強き思いに裏打ちされてか力強く、そしてその力も増している。力を振るうことを恐れず、銀の髪の乙女は率先して戦場に立っていた。その彼女が、言うのだ。
『王子の意図は、何れにあるかわからぬ。だが何故理想郷という名を我らがつけたかは、簡単なこと。それは、真に女神が願う理想郷に適うからだ』
『……女神が願う、…理想?女神アスタルテが、そう望んでいればこその?』
『否。だが、王子の言う意味も含む。ラグズ、ベオク、はざまのもの。穏やかに、そして緩やかに交われば、言葉という手段で互いを理解しえる』
『理解?…交わるということ?それに、はざまの……馬鹿な、そんなことは、考えられない』
ペレアスの顔が見る見るうちに曇り、ぶるりと体を震わせた。このデインというベオクの国が、ラグズに対し抱いているものはこの数週間でよく理解したつもりだ。そういう、種族が違うということで起こりうる悲劇的な感情のことも、オルグは良く知っている。だからこそ、ハタリは死の砂漠の向こうに、密やかに存在すべきなのだとも思う。
『それは、王子が無知だからだ。理解など、しようとも思わなければ、そもそも何も始まらない』
ペレアスは沈黙する。だが、立ち尽くす青年に怯えや不安というものは、先ほどよりも目立たなくなっていた。
『王子は、自分で思うほどに私を恐れてはいない。それはこうして言葉を交わしたからだ。それが、知るということではないのか』
オルグの言葉に、ペレアスは唇を噛んだ。拳が握り締められる。「差別」という程に痛烈な感情を持っているにしても、どこかでラグズそのものに興味があるのではないか。ペレアスの態度と言葉から、オルグはそう解釈していた。
『知ることで、……恐れる心が拭えるならば、…デインという国は生まれてはいない。そういう国を、多くのベオクは望んでいるからこそ、二百余年という歳月を、この国は経ている』
『そう単純でないと、王子の言う事も一つの道理だろう。だが我がハタリの理念もまた、一つの道理だ。何も、同一の道理を同様に掲げる必要などはない』
『……けれども、女神の、願いだと、あなたが言うそれは』
『我らは確かに女神の子。だが、我らには我らの意志がある。価値観、そういう言葉でもいい。意志は我らのものだ。意志が、ただ、共にあるということを望み、穏やかな生き方は一つの結論なのだ。そういう意味の、ハタリという名なのだ』
オルグの言葉は、静かなものだった。それは、ハタリの里に住まうものであれば、皆少なからず抱いている、当然のものだった。異種族が共に暮らすということは、勿論多くの妥協と譲歩を常とするもの。多くが集えば、必ず破綻するとニケも考えていた。だからこそ、その存在は密やかにあり、敢えてそこに新たな存在を招くこともない。言ってみれば、閉じた空間の中限界がある、という見方も出来るのだ。
『…女神の願う、……共に、あることを…?けれど、僕は、…そういう世界など知らないし、……恐ろしいようにも、思う』
『未知なるものは、知りえぬものは、恐ろしいのだ。それはベオクでも、ラグズでも、はざまのものであろうと、同じ感覚だ』
『同じ、……同じ、感覚。…ラグズ、が、恐ろしいなどと、…』
ペレアスは、再び何かを考えているようだった。オルグは、自分がしゃべり過ぎている、と思った。だが、怯えながら、ペレアスはオルグの言葉に真剣に耳を傾けている。そもそも、はざまのものであるがゆえに心を知る力のあるミカヤ以外のこちら側の者、それもラグズではなくベオクと意志の疎通が可能であるという事態に、オルグ自身がどこかではしゃぐ気持ちがあるのかもしれなかった。女王ニケの側近とはいえ、オルグはまだ若年の狼だ。
『…確かに、僕は、あまりあなたを恐れる、という気持ちにはなっていない…あの、元奴隷のラグズという人にしても、同じで、…それは、剣をつきつけてはこないベグニオン兵や、クリミア騎士と同様なのか』
独り言のようにペレアスは呟く。ラグズ奴隷解放軍という組織を受け入れる、そういう決定をしてから、ペレアスはどこかで変わっていた。それは、ただ静かに様相を見守っていたハタリの戦士にも分かるほどの、小さく明確な変化だった。
『王子。この紙片を持ってゆけ。魔道の遣い手であるならば、ここに書いてあることを読み取れる』
『これは……』
『我が国のこと、女王の言葉、はざまのものが記した手記。そういったものが、封じられている』
『…オルグ殿』
『我が名を、知る努力をした王子ならば、それは無為ではないだろう。王たるべきと努めるなら、何れ役立つ』
ペレアスと、直接言葉を交わしたのはこれが初めてだった。勿論名乗った記憶もない。自ら、ただの旗印なのだという諦めをしている割に、ペレアスはこの軍のことを良く知っているのだ。
だからこそニケはかねてから、一度言葉を交わさねばと思っていたようだが、自分が先んじた形になってしまった。
それでも、あの女王は悔しがっても怒るまい。
『ありがとう、…オルグ殿。それから、ミカヤと共に戦ってくれていること、感謝する』
ペレアスは、ようやく笑みらしいものを見せた。いささか緊張はしているものの、オルグに対する警戒心は大分薄れているのだろう。
『…そういう言葉は、まだ、早い』
オルグの言葉に、ペレアスは今度こそ笑みを作った。狼の戦士は、沈黙のまま尾を振る。なんとなく機嫌がいい。それは久しぶりに、他者と言葉を交わしたからだろうと、オルグは思った。
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