レオナルドはこのところ、一人でいることが多かった。
エディと特別に喧嘩をした、というわけではない。そもそもそんな子供じみた理由で一人でいたい、とレオナルドは思わない。勿論煩わしいと思うことは多々あるのだが、それでも気のおけない友人としてのエディという少年の存在は、戦いという場を殊更に好かないレオナルドの精神を大いに助けていた。何より、レオナルドの消極的と言ってもいい性格を考えれば、エディという少年は稀有な存在でもある。
だからこそ、なのだ。あまりにもあけすけに物を言う、つまりはレオナルドが何かをエディに相談すると大概それはノイスやサザに筒抜けである事を鑑みれば言えないような事もあり、現在レオナルドの悩みの種といえばそれだった。
レオナルドは、元からネヴァサに住んでいたわけではない。
レオナルドの家柄は王都ネヴァサに居を構えられるほどに実力者でもなければ、戦功を挙げた家人も先祖もいない。辛うじて曽祖父が王宮騎士であったらしいのだが、その折に王より賜ったらしき剣を家宝とたたえ、有難がる程度である。子供心にも、冷めた目線でレオナルドは自分の家柄というものをその程度なのだと判断していた。士官学校という場所に行ってみれば、その認識は客観的視点を得ることでいっそう強まった。
その、出身地は現在ベグニオン王国との国境の要衝となっているノクス砦付近である。どちらかといえばデイン独自の宗教色が強く出ている地域の、「たいしたことのない」家柄の嫡男としてレナオルドは産声を上げたのが、十五年前のことだった。
ノクスという土地柄、貴族嫡男が反ラグズ感情を育てることを阻むものは皆無といっても良かった。
デイン王国建国以前よりもあのあたりの土地には多くのラグズが生活していた。また、ベグニオン帝国より逃亡した奴隷ラグズが多く逃げ込む土地でもあり、結果地元住民との衝突が絶えぬ場所でもある。作物の少ない年などは互いに血が流れることもあり、南部山岳民族やノクス近辺に住まうデイン人は、その殆どが強烈な反ラグズ主義者であった。
曲がりなりにもそのような背景を背負う土地柄の貴族として英才教育を施されたレオナルドにしてみると、半獣という存在自体がそもそもおぞましいのだ。 何よりも半獣の凶暴さや恐ろしさが単なる対岸の火事なわけではない経験をしている。経験は、何よりも考え方の根拠となりうる。
サザやノイスはこともなげに接しているし、ミカヤも当初こそ怯えの色を見せてはいたが、最近はそうでもない。
何よりレオナルドが驚いたのは、自分と同じ反ラグズ主義者であろうペレアス王子が、自ら陣営にラグズ奴隷解放軍をひきいれ、どころか彼らの存在を大々的に認めたのである。この、解放軍の殆どの人間が寝耳に水であった事態は、だが凡そ好意的に受け入れられていた。
お飾りであった王子が前に出てきたということを歓迎するきらいもあったのだが、何より解放軍中核のミカヤやサザがそれを喜んでいた。
加えれば、彼らラグズ奴隷解放軍という存在は強く己らを主張するわけでもなく、ただ陰ながら解放軍に助力することに徹底していた。彼らに命を救われた者も多い。それに、彼らの指導者でもあるトパックという少年は人好きのする性格だった。
こうなってしまうと、未だに半獣―ラグズという存在に慣れることが出来ないレオナルドは、まるで己が悪人であるような錯覚を覚えていた。
エディはとっくの昔に彼らの存在を受け入れ、言葉を交わすことをものともしない。そう、エディと比べても自分はまるで心の狭い人間のように思えた。
言葉を交わせばわけがない、エディはそういうのだが、レオナルドはそもそも彼らと接すること自体が考えられない。彼らは、化身をする。獣の姿になった時の彼らの力は凄まじい。あまりにも強すぎる力。それを、頼もしいのだとは、どうしても思えなかった。だからレオナルドは出来るだけ彼らと関わることを避けていた。
そのような多くの理由から、レオナルドは一人でいることが多かった。たいがいは義勇兵の年近い若者たちと言葉を交わすとか、あるいは筆記が可能であるという理由から書類整理を任されることもごくまれにある。仕事というだけならば山ほどあり、またそれらのことをこなしてゆくということは、レオナルドという少年にとって矜持めいたものを持たせることにもなっていた。
一度は王子と直接言葉を交わしたこともある。そのことは親友エディにも秘密であり、暁の団でもノイスしか知らないことなのだ。
サザは王子をあまり良くは言ってはいなかったが、レオナルドは言われているほどに弱弱しい、愚物だという印象は抱かなかった。口の聞き方雰囲気だけ見ればそうかもしれない、けれども、その言葉やまなざしの奥にある光は強いものだとレオナルドは思った。ミカヤのいう光は、たぶんこれなのだと納得していた。
当初ラグズ奴隷解放軍の参入を、王子自身快くは思っていないという話をミカヤから聞いたとき、正直なことを言えばレオナルドはほっとしていた。現実に、王子が彼らと接している場を偶然ではあるが見たこともある。
ラグズという存在を受け入れられないのはデイン人であれば当然の感情なのだが、どういうわけかレオナルド周りは変わり者が多かった。
サザなどは自ら率先してラグズという言葉を使う。ミカヤの周囲には必ずといってよいほどあの不気味な狼――東方の国ハタリからの客人などというが、レオナルドにはにわかに信じがたい――であるとか、彼らに簡単に心を許してしまうエディであるとかがいる。ミカヤ自身も、そういう考え方を是としている。ノイスはなるほど年長者らしい割り切り方をしていたが、ノイスの理屈はレオナルドを納得させるには十分ではなかった。
何よりレオナルドがもっとも苦手なのは、そのハタリからの客人という流麗な外見をしている背に白翼を持つ男だった。
美しい、確かに美しいとしか形容の出来ない見た目と線の細い物腰だ。だが、何か心の裏側がざらつく感覚があるのだ。
あれは、伝説の鷺の民ではないのか――人の心をその美しい外見と歌声で惑わし、魂を持っていってしまうという、デインに多くある半獣の伝承の一つを、レオナルドは脳裏に描く。信用できない。近づけば心を覗かれ、そして奪われる。
そういうことの真偽を確かめる勇気など、レオナルドは持っていなかったし、友人エディは面白がって近づこうとするが、そもそもあの鷺はあまり表には出てこなかった―それも、鷺という不気味な存在だからこそだとレオナルドは納得していた。
そういったレオナルドの理論からすると、ペレアス王子は自分と似たような考え方をしているであろう、ということだった。もともとデイン王家は反ラグズ感情が強烈かというと実はそうではない。先代アシュナードに至っては、半獣の戦闘能力は生かすべきだ、などと称し彼らを利用する方法を探っていたという。
それでも、半獣そのものを、まっとうな状態で扱うつもりはなかった。アシュナードは半獣を利用しつつ見下していたのだが、その前はといえば(これは祖父から聞いた話であるのだが)やはりどこか似たような発想で、彼らの「力」を利用出来ぬのかと方法を模索していたという。であればやはり、ペレアス王子もそうなのだろうか。
それはない、とレオナルドは勝手に思っていた。言葉を交わさない代わりに、レオナルドもまた、自分たちの国を導いてゆくであろうペレアスという人となりについて、それなりに色々と思いを抱きもしたし、想像もしていた。
その根拠は王子があの半獣らを見る目だ。驚くほどに冷たく、憎悪に満ちた目をしていた。
それはレオナルドの中の忘却しかけている記憶を呼び起こすようなものであり、恐らくは王子は半獣と不幸なかかわり方をしたのだろう、という憶測をさせるものだった。レオナルドはそこで大いに安堵していた。
変わり者なのはサザやエディだ。自分ではない。第一、半獣がこの軍にいることがおかしいのだ。
だが、どのような経緯であったのかその王子がラグズの存在を認めてしまった。レオナルドにしてみると、どこか裏切られたという気持ちがある。身勝手な感情だとも思う。勿論、ラグズという存在に対する否定的な感情は以前ほどは強くない。力を貸してくれる存在で、頼れる「仲間」である。そういうことはわかっているつもりだった。
けれどもそれだけでは十分に納得がゆかないのだ。
「すまない。音が気に障ったというのならば、謝る」
唐突に頭上から降ってきた声にレオナルドが顔をあげると、ずいぶんと高い位置に細面の青年の顔があった。純朴そうではあるが、それだけではない。感情の読めぬ、印象に残らぬその表情に、レオナルドは青年の名を失念した。
だが、無視するのも悪い気がして、レオナルドは首を左右に振った。そもそもこの青年の言う「音」自体をレオナルドは意識していなかった。それほど深い思案に囚われていたのかといささか恥ずかしい気もして、レオナルドはそのまま押し黙ってしまう。
「そうか、ならばいい。あんたは、暁の団のレオナルドだろう」
表情も声色も変えず、青年は突然レオナルドの名を呼んだ。レオナルドが再び驚きの面持ちで青年を見上げると、細面に僅かに笑みを浮かべ、青年はうなずく。
「そこに座っていいか」
「あ、はい、別に、かまいません」
「俺はブラッド。ローラの昔馴染みだ」
青年ブラッドの言葉に、レオナルドはようやく合点がいった。あの純朴なシスターが、そういえば突然連れてきた兵士がいた。仔細はよくわからないが、とりあえず暁の団に助力してくれるのだというブラッドをミカヤやノイスは歓迎し、以来共に戦っている仲間だった。
「暁の団、か。そういうことが、できたんだな」
青年はどこか遠い目をしていた。レオナルドが不審げに伺うも、ブラッドはお構いなしといった具合だ。そういえば、この青年は元々はベグニオン駐屯軍にいたのではなかったか。そういう事を思い出してしまうと、レオナルドは僅かに体をこわばらせてしまった。
「悪い、俺は一度お前達には槍を向けてしまっていたな」
「いえ」
ブラッドはそれなりに気を遣っていただろうに、ぶっきらぼうな態度で返してしまった己をレオナルドは恥じた。強ばる顔にわずかな笑みをつくって見せると、面長な青年は少し、笑ったようだった。
「ローラの話は、要領を得ない。けれども、だいたいあんたたちがどういう事を望んでいるかというのは、目を見ればわかる。俺も、デイン生まれだからな」
ブラッドの口調はぶっきらぼうだった。けれども、どこか親しみが持てるような気もした。そこでレオナルドは気づく。この青年は、物腰があまり荒んでいないのだ。ベグニオン駐屯軍、という所属や戦場での確実な働きぶりから、彼は優秀に兵士であるのだと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
「僕が、そういう風に見えたなんて……ミカヤやエディの影響かな」
「後方を支援するものが、前に立つものを信頼しないことはありえない。逆もまた、同様だ。あんたの射る矢は、正確だ」
これは、励まされているのだろうか。レオナルドにはよくわからなかった。ブラッドの表情は、あまり動かない。けれどもブラッドの言葉は、レオナルドの胸中のものを直接どうにかしてはくれなかったが、幾分気持ちが軽くなったように思った。
「俺はベグニオンにいた。そこで過ごす事は、祖国で過ごすよりも多分楽だった。けれど、そうした十年余りは、この鎧や槍よりも軽かった。ローラがいたから、それは理由を捜していた俺には、あまりにも」
青年はそこで言葉を呑む。少しの沈黙は、妙な息苦しさを誘う。
「ブラッド、さん。僕たちを助けてくれて、ありがとうございました」
切れ長の目が一瞬、見開かれる。レオナルドはブラッドに、小さく頭を下げた。わだかまりは、ないわけではない。ベグニオン駐屯軍兵にならざるをえなかったブラッドにせよ、ラグズというものにせよ。
だが、戦力も十分ではなく状況的には不利といわざるをえない解放軍には、そのような[贅沢」な悩みは不要だ。そういうことをまず態度で示したのは、祖国解放の旗印たるペレアス王子その人だ。
ミカヤは元々、そういった感覚にどこか薄い。そしてサザは、少なくともデイン人由来のそのような感情とは訣別している。
「ありがとう、ございました」
彼の理由を認めたのだ。ならば、ミカヤにただ助力するというハタリの客人やラグズ奴隷解放軍も、同じ事だ。助けられたという事実が在る。
繰り返す言葉に今度はブラッドが怪訝そうな顔をした。けれども感謝しなければならない理由は、レオナルドの中にはあるのだ。
レオナルドの表情に感じるものがあったのか、ブラッドは小さく嘆息して弓手兵の少年の肩を軽く叩く。なんとなくくすぐったいような気になり、レオナルドは小さな笑い声を漏らした。
Comments